stormy night =3=
かちり、と音がして背後のドアが開く。
タオルでゴシゴシと頭を拭きながらバスルームから出てきた副社長は、下半身こそズボンを身に着けていたが、上半身は裸だった。
彼の背中。
すっきりと引き締まっているのに、やはり肩の辺りには男らしい筋肉が浮いている。
ふと、激しい慟哭のようなものを感じて、私は思わず胸を押さえた。
佐和子という少女が初めて「
MISAKI」の本社を訪れたとき、廊下の先で彼女に両腕を広げて見せた彼の柔らかな笑顔。
会議が終るのを待ちくたびれて彼のオフィスのソファで寝込んでしまった彼女の傍らに跪き、その額を慈しむように撫でていた彼の優しい指先。
閉じていくエレベーターの扉の向こう、一刻を急くように彼女の細い身体を抱き寄せた彼の力強い腕。
それらを目にする度に、胸の中に蓄積されていった切ないような気持ちの意味を、このとき、私はやっとはっきり理解したような気がした。
「副社長――」
気がつけば、彼の背中に縋りついていた。
顔を上げると、驚いたように振り向いた彼の瞳がそこにあった。
「関口?」
私の名前を呼んだ彼の口調には、少なからぬ戸惑いが混じっている。
私は、彼の胸に腕を回して強く抱きしめる。
「副社長、私……私は……」
あなたのことが好きなんです。
秘書として初めて彼に引き合わされたとき、なんて綺麗な人なんだろうと思った。
若くして、国内有数の大企業の副社長を務める、天から二物も三物も与えられた恵まれた御曹司。
人を人とも思わない性格は確かに些か問題ありだったが、それをも納得させてしまうようなカリスマを彼は持ち合わせていた。
思えば……あの瞬間からすでに惹かれ始めていたのだ。
私は、この人に。
けれども、その言葉を口にする前に、私は強い力で彼から引き離されていた。
「お前らしくもないな、バカな真似は止せ」
「バカな真似なんかじゃありません、私は――」
肩に置かれた手に自分の手を添えてぎゅっと握り締める。
「初めてお会いしたときから、あなたのことを……」
続けようとした私に、彼は再び背を向ける。
「悪いが……その続きは聞けない」
「なぜ……?」
「お前は有能だよ、関口。俺はお前を全面的に信頼している。お前は、俺にとっても『
MISAKI』にとっても、なくてはならない存在だ。でも、俺はお前を女として見ることはできない」
彼は少し辛そうに眉を顰める。
私は強くかぶりを振った。
「いいんです、副社長の特別になろうなんて思わない、ただ……今だけ……今、2人でこうしている時間だけ、私を見てください」
お願い、私は彼の腕に額を押し付けながら言う。
彼の肩の力が抜ける。
向き直った彼の手が私の肩を掴み、そして……。
「済まない……関口、済まない……」
これほどまでに、はっきりと拒絶されるとは思わなかった。
1度きりでも良かったのに。
ただ、私の気持ちを受け入れてくれれば、それだけで良かったのに。
「大事なんだよ……佐和子が」
ワイシャツを羽織りながら彼は言った。
「俺には、あいつを裏切ることはできない。今この場にあいつがいなくても、俺の心がそれを許すことができない。俺には、あいつしか……佐和子しか見えない」
切なげな彼の声。
そんなにも愛されているのだろうか、あの佐和子という少女は。
彼女の何が、彼にここまで言わせるのだろうか。
「俺に……初めて人の温かさってもんを教えてくれたやつなんだよ。望めば何でも手に入れることのできる俺が唯一持っていなかったもの……佐和子はそれを与えてくれた」
それが何だかわかるか、と彼は聞く。
私が首を振ると、彼は小さく笑った。
「愛だよ」
その陳腐な台詞は、あまりにも彼らしくなかった。
少なくとも、私の知る御崎幸太郎は、間違っても愛だの恋だのに絆される人間ではないように思えた。
表情から私がそう思っていることが読めたのか、彼が苦笑を洩らす。
「笑えるよな。自分でも、何クサイこと言ってんだと思うよ。だがな、佐和子といると、そういうものを信じてみようかなって気になる。本当に、不思議な女だよ、あいつは」
だからこそ、俺はあいつを手離せない、と彼はひとりごちるように言った。
勝てない、と思った。
どんなことをしても、私はあの少女には勝てない。
あの黒い髪と黒い瞳を持った儚げな少女は、この人の心の1番深いところに棲みついているのだから。
私は悟った。
私には、一生かかってもこの男性を振り向かせることはできない。
「俺はお前が好きだよ、関口」
項垂れた私に、彼は今まで聞いたこともないような優しい口調で言った。
「でも、それは男が女に寄せるような感情じゃなく……同志愛みたいなものだ。俺はこれからも、お前に俺と『
MISAKI』を支えてもらいたいと思う。それじゃ、ダメか?」
この台詞は、女としてとても残酷なもののように思えた。
ああ、でも……私はこの人に付いて行きたい。
この人の、力になりたい。
たとえそれが、報われない想いであっても。
その夜、私は御崎幸太郎の胸の中で泣いた。
私が男性に涙を見せたのは、後にも先にもその1度きりだ。
* * * * *
翌日、台風一過の関東の空は、抜けるように晴れ渡っていた。
そして、その青空と同じくらい、私の心も澄んでいた。
東京へ向かう車の中、運転席の彼を窺い見る。
そのときも、私はやっぱり彼を美しい人だと思った。
願っても私のものにはならない人だけれど、尽くしていきたい。
同志としてでも良い。
彼が、私を必要としていてくれる限り。
= fin =


2016年05月10日 ill-matched ? 番外 トラックバック:0 コメント:0