For The Moment =14=
柚月から電話があったのは、マンションに帰る車の中だった。
咲口先生のアパートであんなことがあって……けれど、あそこまでされても柚月への貞操(男でもこういう言い方をするのだろうか)を守ることのできた自分自身に、満足のようなものを覚えていた。
もちろん、女性のひとり暮らしの部屋に上がりこんで、咲口先生に要らぬ期待を抱かせたのは僕の過失だし、結果的に彼女をひどく傷つけてしまっただろうことは自認している。
それについて、僕は大いに反省すべきだとも思う。
けれども、やっぱり僕にとっての柚月の存在というのは何を置いても揺るがせにはできないもので、今回のことでそれを再認識できたのは収穫だったとも言えた。
柚月に会いたい……。
そのとき、僕は切実に願った。
そして、とにかく早く家に帰って彼女に電話しよう、腰を据えてきちんと話し合おう、と思い、できる限り車を飛ばしている最中だった。
彼女からの着信は、専用にメロディーを変えてあるからすぐにわかる。
でも、実際にそれが車中に流れたときには少し驚いた。
とりあえず、車を路肩に寄せて止めると、僕は携帯電話を取り上げた。
「もしもし?」
電話の向こうで、彼女がはっと息を呑むのが伝わってくる。
まるで、電話をかけてきたのは自分の方なのに、僕が出るとは思ってもみなかった感じだった。
「柚月、どうした? ……君なんだろ?」
平静を装いながらも、僕は、柄にもなく少し動揺していた。
もしここで、「ごめんなさい、間違えました、先生にかけるつもりじゃありませんでした」なんて言われたら、ショックはさぞかし大きいことだろう。
けれども、柚月は蚊の鳴くような声でこう言ったのだった。
『先生、助けて……』
一瞬、頭の中が凍りついたかと思った。
久しぶりに聞いた愛しい人の声は、何かに怯えるように震えていた。
「助けて? どうした、何があったんだ、今どこにいる?」
矢継ぎ早に僕は尋ねた。
嫌な予感に胸を苛まれて、心臓の辺りが苦しくなる。
『変な人に尾けられてるみたいなの。先生ん家の近くに公園あるでしょ、今そこの滑り台の下に隠れてるんだけど――』
彼女の言葉を最後まで聞かず、僕は即座に叫んでいた。
「すぐに行く、絶対にそこから動くな!」
僕は、車を急発進させた。
とにもかくにも、柚月の元に駆けつけなければいけない。
事はおそらく一刻を争う。
僕の住むマンションの近くには、確かに小さな公園がある。
住宅地のど真ん中にあるせいか、昼間は子連れの若い母親などで結構賑わっていたような記憶もあるが、日暮れ以降はめっきり人足が途絶えてしまう。
コンビニにたむろする不良たちにでも尾けられていたのなら、咄嗟に身を隠すには好都合だったかも知れないが、逆にやつらに見つかってしまったときには取り返しのつかない事態を招きかねない。
そもそも、陽の落ちるのが早いこの時期、住宅地の道路など、夜中のような静けさだ。
そんな場所を柚月みたいな少女がひとり歩きをするということ自体、狼のうろつく森を赤ずきんが歩くようなもの――。
「くそっ」
僕は、思わず両の拳をハンドルに叩きつけた。
マンションからなら、走れば5分もかからずに駆けつけられる距離なのに。
現在地からは、どんなに車を飛ばしても15分はかかる。
そのタイムロスの間に柚月に万が一のことがあったら……僕はきっと悔やんでも悔やみ切れない。
すぐに行く、そう言って電話を切ってから、10分余りが経っていただろう。
柚月がどんなに不安な思いで僕を待っているのかと考えると、また胸が締め付けられる。
目当ての公園近くの路上に車を止め、柚月の言っていた滑り台を探す。
頂きから少し長めのスロープが伸びた小山のわき腹に、大人が屈んで通れるくらいのトンネルがいくつも開いている。
その中のひとつに、柚月はいた。
両膝を抱え、膝小僧に額をつけて。
友達はみんなお母さんが迎えに来てくれたのに、ひとりだけ取り残されてしまった子供みたいに寂しげな様子だった。
そのとき。
ポキン、と僕のつま先が小枝を踏む音がして、彼女がびくりとして振り向いた。
「先生?」
暗い中でも、彼女の瞳が大きく見開かれているのがわかる。
彼女に向かって両手を広げて見せると、柚月は駆け寄って来て、僕の胸にぎゅうとしがみついた。
「怖かった……怖かったよぅ」
「大丈夫、僕がいるから……もう大丈夫」
震える肩を抱き寄せ、宥めるように髪を撫でる。
久しぶりにこの腕に抱いた彼女の身体は、とても細くて小さくて。
やっぱり僕が守ってあげなくちゃと思う。
僕の部屋へ行こう、と僕が言うと、彼女はしゃくり上げながら小さく頷いた。
つづく


2016年04月16日 For The Moment トラックバック:- コメント:0