For The Moment =12=
「……それで、先生はどうして一旦は教職を離れられたわけですか?」
狭いアパートの、女性のひとり暮らしとは思えないほど殺風景な、6畳ほどの和室に置かれたテーブルを挟み、差し向かいで座る彼女に僕は尋ねた。
テーブルの上にはあり合せのつまみと、ビールの缶がいくつか。
――驚かせてごめんなさいね……でも、それが生憎冗談じゃないのよ。
脳血栓で倒れ休職中の安藤先生が復帰すればお払い箱になるはずの彼女は、最後に楽しい思い出が作りたかったと言って、僕を誘った。
僕は別に、その誘いに乗ったわけじゃない。
ただ、いつになく寂しそうにも見えた彼女を、あのままひとりきりで帰すことに気が咎めたというか、なんというか……結局は自分の車に乗せて彼女を家まで送り、ほんの少しの時間でいいから寄ってくれという言葉を断り切れず、こうして上がり込んでいるというわけだ。
それに……どうせ自分のマンションに帰ったって、今はひとり。
柚月のいない部屋で彼女のことばかりを考えながら無意味な時間を過ごすのなら、話し相手がいた方がどんなにか救われる、と思ったことも否めなかった。
「そんな話、聞いても面白くないと思うけど」
聞かれた彼女は、少し困ったような顔でそう答えた。
次の言葉を選ぶように、人差し指の先で缶ビールの縁をなぞっている。
何年か前には、その細い指が黒板に書き出していくチョークの文字を、綺麗だと思いながら眺めたことがあったっけ。
「私ね、前の学校で事件を起こしてるのよ、…未遂だったけど、強姦」
彼女は、自嘲気味に笑いながら言った。
「相手は、教え子だった男子高校生。穏便に済ます手もあったんだろうけど、私、かなり手酷く殴られて口の中を切ったり顔に痣ができたりしてて……警察沙汰になっちゃった」
「……初耳です」
「でもねえ、婦女暴行は女性側の親告罪って言うの、身に沁みてわかったわ。事情聴取が半端じゃないのよ、こっちは被害者なのに。信じられる? どこをどんな風に触られたか、胸は揉まれたか、アソコに指は何本入れられたかって、事細かに聞かれるの。女性にとっては、2度被害に遭うのと同じよ、精神的な苦痛は相当なものだわ」
想像もしていなかった話に、僕は返す言葉もなくただ頷いた。
彼女はビールを一口飲んで、さらに続けた。
「もしこの件が法廷にまで持ち込まれれば、今の話を何度も繰り返さなきゃならない。弁護士や検事や裁判官や、傍聴人の前で。それに耐えられるかって、婦警さんに聞かれたわ。もちろん、耐えられませんって答えた。だから、刑事事件にはならなかったけど」
「お気の毒です……」
「お気の毒? そうね、そうかも知れないわね。でもね、それだけなら犬にでも噛まれたと思ってやり過ごすこともできたの。大変だったのはその後よ」
「その後?」
「そう。おそらく相手方の誰かがリークしたんだろうけど、その件が週刊誌に載っちゃったの。もちろん、氏名も学校名も伏せられていたけど、読む人が読めばわかるし、しかも誘惑したのは私の方、むしろ被害者なのは生徒の方だって文面で」
今でも思い出すと悔しいのか、彼女は片手でビールの缶を握りつぶした。
「それからは想像がつくでしょ。PTAで問題になって、学校の理事会から査問されて、まるで悪いのは私みたいに一方的に責められて。こういうとき、私学は損よね。教育委員会みたいに、教師を守ってくれる機関がないんだから。結局、何を言っても信じてもらえなくて、退職。懲戒免職だけは免れたから、教師を続けていこうと思えばできたけど」
話しながら、いかにも辛そうに眉を顰める。
何か言葉をかけようと思っても、咄嗟には何を言えばいいのかわからなかった。
「主人に離婚を持ちかけられたのはそのすぐ後。ショックだったわ、1番大変なときに、1番側にいて欲しい人に去られるなんて、思ってもみなかった」
自棄になって当然よね、と彼女は苦笑した。
悲しそうにも見えた。
「……まあ、これが私が教師を辞めた理由。でも人間、働かなくちゃ食べていけないのよね。正直、私学協会から今回の話があったときには迷ったんだけど、結局は引き受けたのも、やっぱり自分が教師っていう仕事が好きだったからかも知れない」
「咲口先生は、立派な先生だと思いますよ。今でも尊敬しています」
やっとのことで、僕はそれだけ言った。
ありがとう、と彼女は微笑んだ。
「前に私、荻野君に会えたのは運命だと思うって言ったでしょ、あれ本気よ」
「……はあ」
「あなたに会って、私、自分が1番輝いていたときのこと思い出した。教えることが好きで楽しくて、毎日がとても充実していたあのころを」
不意に、彼女が真剣な目で僕を見た。
突き詰めた彼女の視線に、僕は心臓をきゅっと掴まれたような気分になった。
「自分でも、いい歳してみっともないと思う、でも……」
彼女が僕の側に来る。
少し酔っているのか、目の下が赤い。
手に手が重ねられ、そして。
「もう1度だけ、夢……見させて」
畳の上に押し倒される。
目の前に彼女の顔がある。
柚月以外の女性をこんな近くで感じたのはどのくらいぶりだろう。
押し付けられた唇に思わず身体を緊張させると、彼女が顔を上げた。
「咲口先生、僕は……」
「言わないで……お願い、これ以上恥をかかせないで……」
彼女が、僕のズボンの前を開ける。
うな垂れたソレを手にとって頬擦りし、口づける。
「1度でいいの、私に、…自分が女だってこと思い出させて」
「……無理です」
「そんなことないわ!」
勃ち上がる気配のないソレに両手を添え、舌を絡め、擽るように舐め回す。
僕は天井を見上げたまま、虚しい気持ちでそれをやり過ごそうとした。
僕が欲しいのは彼女じゃない、柚月だ。
どんなに嫌われようと、どんなに疎まれようと、僕には柚月しか見えない。
柚月でなければダメなんだ、僕は……。
「……どうして」
萎えたままのソレを見下ろして、咲口先生は吐くように言った。
「私って、そんなに魅力ない? 私が歳を取ったからダメなの?」
僕は起き上がって服を直した。
彼女は横を向いて畳の目を睨んでいた。
「そんなことはありません。咲口先生は、とても魅力的で素敵な女性だと思います」
「だったら――」
「好きな女性がいるんです。彼女が愛しくてたまらない、叫び出したいくらいに恋焦がれているんです」
立ち上がった僕を、咲口先生は縋るような瞳で見上げてきた。
「1度きりでも、ダメなの……? 私だって、あなたのことが好きなのに」
「すみません……でも、僕は彼女を裏切れない。僕の心がそれを許さない」
「酷い……最低だわ、女にここまでさせて、ここまで言わせて、それでも拒むの?」
「……申し訳ない……」
俯いて唇を噛んだ彼女に背を向けて、僕は玄関に向かった。
彼女はもう、……何も言わなかった。
後ろ手にドアを閉めるとき、泣き声が聞こえたような気がした。
でも、本当にそれが聞こえたのかどうか自信はない。
外は寒かった。
凍えるほどに寒かった。
柚月に会いたい。
いや……会わなければと僕は思った。
つづく


2016年04月15日 For The Moment トラックバック:- コメント:0