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出かけるばかりの仕度を整えたあとで、とりあえず簡単な朝食を用意して、食べる。
幸太郎は、あたしと暮らし始める前は、1日中何も食べないでも仕事ができる人だったらしい。
忙しすぎて食べることさえ忘れることも多かったと言っていた。
でも、いくら多忙だからって、そんなの絶対身体に悪いし、あたしがここで家事を引き受けるようになってからは、なるべくきちんと食べてもらうようにしてる。
純粋に彼の健康のためっていうのもあるけど、本当は、彼があたしの作った料理を美味しそうに食べてくれるのが嬉しい。
自分が、少しでも彼の役に立ってるんだと思えるから。
「さてと、そろそろ行くか?」
彼が、リビングのテーブルに置いてあった車のキーを取り上げる。
あたしもバッグを持とうとしたところで、彼の携帯電話が鳴った。
チッ、と幸太郎が小さな舌打ちを洩らして電話を取る。
彼は、プライベートな時間に仕事を持ち込むことを嫌う人だ。
「御崎だ」
電話1本で、声も表情も仕事用に変えられる幸太郎はすごい。
仕事をしている時の彼は、怖いくらいに真面目な顔をしていて、声をかけるのが憚れることもある。
彼の秘書である関口さんに、「副社長は、会社では厳しい方だけれど、佐和子ちゃんだけには甘いのね」と言われたこともある。
「ふざけるな、そこをうまく調節するのがお前の仕事だろう」
幸太郎が、少し怒ったような声を出したので、あたしはビクッとして我に帰る。
彼があまり面白くない電話を受けていることは、その口調からも窺い知れた。
「とにかく、今日はもう予定を入れてある。そんなことは自分達で解決しろと言ってやれ」
苛々とした調子でそう言い捨て、電話を離しかけた幸太郎が、相手側に何かを言われ、忌々しげにもう1度それを耳に当てる。
「クソッ、役立たずの能無しどもが。このツケは必ず払えと言っておけ、すぐに行く」
通話の終った携帯電話をソファに投げ、幸太郎は大きく嘆息した。
あたしは黙っていた。
彼が言いたいことはわかっていた。
「すまん、佐和子」
「……会社で何かあったの」
「ああ、どうもトラブってるみてえだ。俺が出て行かなきゃ話が収まらねえらしい」
「どうしても、幸太郎が行かなきゃダメなの」
彼は、本当にすまなそうな顔で頷いた。
いっそ、申し訳なさそうな様子なんて見せなければいいのに。
そうすれば、あたしもそういうものなんだって諦めがつく。
なのに幸太郎が、躊躇うような素振りをするから、あたしだって……。
「行かないで、行っちゃヤダ」
「無理言うなよ、佐和子。俺だって、行かねえで済めば行きたかねえよ。でもこれは、俺だけの問題じゃねえ。『MISAKI』の今後にも関わる案件なんだ」
そんなこともちゃんとわかってた。
わかってて、気持ち良く送り出してあげたかった。
あたしのことなら気にしないで、お仕事頑張ってねって、言ってあげたかった。
それなのに、あたしの口から出た言葉は。
「幸太郎は、あたしよりもお仕事の方が大事なんだ」
「んなわけねえだろう、そもそもお前と仕事なんて比べられるかよ、次元が違うじゃねえか」
「だって、今回のことはずっと前から約束してたことでしょう? あたし、この日が来るのをずっと待ってたんだよ。すごく楽しみにしてたんだよ」
こんな言い方をしたら幸太郎だって辛いのに、止めることができなかった。
「お前には悪いと思ってる、いつもいつも我慢ばっかりさせちまって」
どうして怒らないんだろう。
どうしてそんなに優しいことを言うんだろう。
いい加減にしろ、つべこべ言うなと一喝してくれれば良かったのに。
「もういい、早くお仕事に行けば」
「そんなに不貞腐れるなよ、佐和子。この埋め合わせは、近いうちに必ずするから」
幸太郎は、困ったように苦笑しながら、あたしの頭を撫でてきたけれど、あたしは素直に頷くことができなかった。
少し意固地になっていた。
「幸太郎の言うことなんて当てにならないよ。守れない約束なら最初からしないで」
「佐和子……」
幸太郎は、少し戸惑いながらあたしの両肩を掴んだ。
あたしがあんまり頑なだから驚いたのかも知れない。
そのまま、彼の胸に飛び込んでしまえれば良かった。
つまらない意地なんて、張らなければ良かった。
「幸太郎の顔なんて見たくない、早く行っちゃってって言ってるの!」
「佐和子、お前……」
その時の幸太郎は、心底傷ついたような顔をしていた。
彼はゆっくりとあたしから離れた。
「わかったよ、行って来る。でも、俺……」
「もう何も聞きたくないの、幸太郎なんて嫌い……大嫌い」
違うよ、違う。
こんなの本心じゃない。
でも、1度口から出てしまった言葉は取り返しがつかなかった。
幸太郎は、黙って自分の書斎に行き、出てきたときにはきちんとスーツを着込み、手にはブリーフケースを抱えていた。
今さらのように、行ってしまうんだと思う。
彼は何も言わずに玄関へ向かう。
彼のあとを追って謝りたいのに、どうしても足が動かない。
玄関のドアを開けようとして、彼があたしを振り返った。
なのに、その時も、あたしは視線を逸らしてしまった。
バタン、とドアが閉まる音。
そこに彼の姿はもうない。
ひとり残されたあたしは、その場に座り込んで声を上げて泣いた。
つづく


2013年01月17日 ill-matched ? 番外 トラックバック:- コメント:0