一夜のあやまち =2=
滝沢翼――。
去年、新任の私が受け持ったクラスの1つ、2年B組に在籍していた生徒だ。
長身で均整の取れたスタイル、甘さの残る端整なマスク、他人が羨むほどの恵まれた容姿に加え、成績は学年でもトップクラス、おまけに性格は明朗快活、とくれば人気者でないわけがない。
彼は、そういう生徒だった。
実際、クラスでも中心的存在だった彼に、前も後ろも覚束ない新任の英語教師だった私は、どれだけ助けられたことだろう。
鈴木という教師は学院に3人もいるからと、私のことを親しみも込めて「美穂先生」と呼んでくれたのも彼が最初だった。
今では、ほとんどの生徒が私のことをそう呼ぶようになっているけど、あの頃は、彼の少し大人びた柔らかい声が私を呼ぶ度に、少しドギマギしながらも嬉しかったのを覚えている。
ああ、そうか……だから。
彼の声が、耳に馴染んでしまったんだ。
彼の声に惹かれてしまったんだ。
「滝沢君、プロフィールは20歳だって……」
「この業界、年齢詐称は常識らしいよ。そもそも、そんなもの徹底的に調べたりしないし」
「それに……その髪……」
ああ、これ? と言って、翼君は自分の髪をふわりと掻き上げた。
「このバイト始めるときに染めたんだ。先輩が『プロフィール写真で目立ったほうがいい』って言うし、僕もイメチェンのつもりで。似合わない?」
そうじゃなくて……似合ってるから、眩しくてドキドキしちゃうっていうか。
3年生になってからは、私が彼のクラスを担当していないこともあり、ほとんど話をすることもなくなっていたから、全然知らなかった。
ああ、もう……何か、何か言わなきゃ。
今さら遅いかもしれないけど、少しは教師の威厳を示さなきゃ、いくらなんでも格好悪すぎる。
「ていうか、高校生がこんなバイトしたらダメじゃない!」
「先輩に無理やり誘われて、断れなかったんだよ。でもおかげでこうして先生に会えたし、思わぬ本音も聞けたし、ラッキーだったかな、なんて思ったりして」
「そういう問題じゃないでしょ」
トン、とテーブルを叩いた私の手を、翼君が掴む。
「じゃあ、どういう問題?」
「え……?」
眼を上げると、翼君の涼しげな眸がすぐ側にあった。
ドキン、と心臓が大きく脈を打つ。
「まあ、いいけどね。僕はもう聞いちゃったわけだし」
「な、何の話?」
「我が明慶学院高校にお勤めの鈴木美穂先生は、赴任2年目にしてすでに教職に失望し、教師を続けていく情熱を失くしている」
朗々と詩でも読み上げるような調子で言う翼君を、私は両手を振って制した。
「ちょっと、人聞きの悪い言い方しないでくれる? 気力も熱意も失くしてなんかいないわよ。ただちょっと、弛んできちゃったっていうか、なんて言うか……」
「どっちにしろ、かなり煮詰まっちゃってるってことでしょ?」
言い返せない自分が情けなくて、悔しい。
「ねえ、美穂先生。こんなの、余計なお世話なの承知で言わせてもらうけど。ひとりで抱え込んでるのって良くないと思うな。ここらで一気に発散させちゃったらどう?」
私は、有香の言葉を思い出した。
最近の美穂、元気がないんだもん。
いっそ、ここらで弾けてみるのもいいかも知れないよ?
ハジケル?
「欲求不満は解消しないと。僕で良かったら相手になるし?」
話のついで、みたいな口調で翼君が言う。
ああ、また……ドキン、ドキン、心臓の鼓動が大きくなる。
絶対に変だ、今日の私。
「なんつって。ま、冗談ですけ……」
ど、を言おうとした翼くんが、笑顔のまま固まる。
たぶん、私の顔は、冗談を冗談で済ませるようなそれではなかったから。
「解消……させてもらおうかな」
「……それって、どういう意味に取ればいいのかな。出張ホストである僕に、その種のオプションを依頼するということ? それとも……」
「滝沢君の、好きでいいよ」
私、何を言っているんだろう。
「わかった。行こう」
翼君が、笑顔を消して立ち上がる。
伝票を取ろうとした私よりも少し早く、彼の長い指がそれを摘み上げた。
「じゃあ、今日はこれでサヨナラだね」
カフェを出たところで、翼君が言う。
「え……?」
私は思わず言葉に詰まる。
もしかして、からかわれてた?
「なんか、名残惜しそうな顔してるけど」
「しっ、してないわよ!」
意地悪な笑いを唇の端に浮かべた翼くんに対して、私はムキになって言い返す。
名残惜しくなんてない。
そんなこと、あるわけがない。
「今日は楽しかったわ。どうもありがとう」
「それはお互い様だね。僕の方こそ楽しかったよ、美穂さん」
翼君が、握手の手を差し出す。
私は、少し躊躇ってからその手を握った。
「今日は、ありがとうございました。次回もぜひ、僕をご指名くださいね」
冗談じゃない、と私は思った。
もう2度と、出張ホストになんて会わない。
金輪際、この先どんなことがあったって、絶対に御免だ。
「さようなら、美穂さん」
身体を少し屈めるようにして、翼君が耳元で囁く。
それから、握った手を引き寄せられた。
「……ちょっ、な、何?」
咄嗟に何が起こったかわからない。
唯一、はっきりしているのは、私が今、翼君の腕の中にいるということ。
「あらためまして、こんにちは。美穂先生」
「へ?」
唖然として言葉もないまま、翼君を見上げた私に向かって、彼はこれ以上ないくらい楽しそうな顔で笑いかける。
「これで、ホストの翼としての仕事はお終い」
ね? と翼君は言って、さらに私を抱きすくめた。
通りを歩く人達が、何事かと振り返って私たちを見る。
「ち、ちょっと、滝沢君……」
「捕まえた」
「みんなが見てるわ……離して、滝沢君」
「いやだ」
滝沢君が、私を抱く腕に力を込める。
思いがけず広い胸、強い腕。
心臓が口から飛び出してきそうなくらい、バクバクしている。
顔が火照って、頭が酸欠にでもなったみたいにクラクラする。
「僕、真剣だからね」
眼が合って、視線が絡んだ。
翼君の瞳に宿った光が……私を射止めて離さない。
「滝沢君……」
「いいよね?」
見つめられて、ゆっくりと頷いていた。
その瞬間、心の中で何かが溶けていく気がした。
からかわれたと思った怒りも、雑踏の中で抱きすくめられている戸惑いも、急速に消えていった。
その温かい手で、私に触れて。
その柔らかな眼差しで、私を包んで。
その優しい声を聴かせて、私に。
大好きだった、あなたの声を。
例えばこれが、一夜のあやまちだとしても……。
教師である私にあるまじき想いなんだって、わかってる。
だけどもし、こうなることが運命だったとしたら、私はしっかりと受け止めたい……受け止めなくてはいけないのだから。
つづく


2012年12月22日 HAPPY-GO-LUCKY トラックバック:- コメント:0