beloved =26=
「佐和子ちゃん、ちょっとこっちへ良いかしら?」
一通りの茶事が終わり、和やかな雰囲気の漂う茶席。
とりあえず、何事もなく自らの「お披露目」も終わりに近づいたことで、密かに一息ついていた佐和子は、そう篠子に声をかけられてまた少し緊張した。
篠子は、彼女と同年輩か少し若いくらいの、穏やかで品の良さそうな男女と談笑していたが、手招きされた佐和子が側に寄ると、一同は揃って佐和子を眺め見るようにした。
相変わらず多忙な御崎巌は、彼らよりも一足先に退席していた。
「加賀美さん、こちらが例のお話の……」
「ええ、すぐにわかりましたわ。本当に、なんて可愛らしい……まるでお人形みたい」
そう言われた当人は、篠子に促されて、三つ折りの市松人形よろしく正座をする。
「こちらは加賀美さんと仰ってね、能登で大きな造園業をなさってるの」
「はあ……」
そう紹介されても、なんと答えて良いかわからず、とりあえずぺこりとお辞儀をすると、加賀美という中年の夫婦は、揃って佐和子に会釈を返してきた。
「加賀美です。よろしくね、佐和子ちゃん」
婦人の方に握手を求められ、佐和子は慌ててその手を取った。
きめ細やかで繊細な、いかにも苦労を知らない女性の手だった。
「こちらの奥様はね、私の妹の嫁ぎ先のお嬢さんで……まあ、彼女にとっては義理の妹になるわけで、加賀美さんに嫁がれたの。御崎の家と直接関係があるわけじゃないのだけれど、縁続きということになるのかしら」
聞きながら、佐和子は慌しく頭の中で家計図を思い浮かべた。
なんともややこしい間柄だが、篠子自身とは親しいようだ。
それは、取りも直さず佐和子が粗相をしてはいけない相手、ということになる。
「今日、加賀美さんにわざわざ遠方から来ていただいたのはね、あなたに是非会って欲しかったからなの」
「……あたしに、ですか」
おば様は、どういうつもりで自分とこの人たちを引き合わせようとするのか。
篠子の意図を量りかねて戸惑う佐和子に、篠子は普段と変わらない穏やかで上品な笑みを浮かべて続けた。
「佐和子ちゃんをね、加賀美さんの養女にどうかしらって」
佐和子は一瞬、皆目解せない外国語を聞いたときのように目をぱちくりさせたが、徐々にその意味を理解して唖然とした。
「むっ、無理です! あたし、父の顔は知らないけど、母は健在、…のはずです。そんなこと、勝手に決めるなんてひどすぎます。どうして、どうしてそんな――」
言いながら、わなわなと唇が震え始めるのが佐和子自身にもわかった。
佐和子は、今になってやっとこの篠子の本意を見たような気がした。
おば様は……やっぱり、あたしのことを疎ましいと思っているんだ。
親しげに接してくれたのも実は上辺だけで、本心はどうしたらあたしを幸太郎から遠ざけることができるか、計略を思い巡らせていたに違いない。
大事な幸太郎の将来に邪魔なあたしを親戚に押し付けて、体の良い厄介払いのつもりだろうか、そんなの冗談じゃない。
「ひどいです、あたしのことが気に入らないならそう言ってくれればいいじゃないですか。それを、こんなに手の込んだことまでして……あたし、おば様のこと素晴らしい人だと思ってたのに。こんな人がお母さんだったらなって思うくらい、大好きだったのに」
言い終わらないうちに、佐和子は席を立とうとした。
一刻も早く、この屈辱的な場から離れたかった。
何が茶会、何がお披露目、何がお嬢様教育、とんだ茶番も良いところだ。
少しでも幸太郎に相応しい女の子になれたら、なんて思い上がったことを考えた自らのお目出度さ加減に、自分で自分に腹が立つ。
「少し落ち着いてちょうだい、佐和子ちゃん。それは誤解よ」
佐和子を止めた篠子の声は、ほんの少しの笑いを含んでいた。
袂を引いて、再び席に着かされる。
「私ね、あなたを幸太郎から引き離そうなんて思っていないのよ」
「……」
小さな肩を怒らせて敷物を睨んでいた佐和子は、黙ったまま顔を上げた。
「別に、実際に加賀美さんに貰われて能登に行けって言っているわけでもないし」
そうですわよね、と同意を求められて、加賀美の婦人が小さく笑った。
「だったら……養女って、どういう意味ですか」
硬い口調で尋ねた佐和子に、篠子は微笑を向けた。
「私ね、最初のうちはあなたのこと、どこの馬の骨ともわからない、素性のはっきりしない家出娘で、幸太郎にとっても、御崎の家にも相応しくないって思ったわ」
篠子は、本当に申し訳なさそうな様子で佐和子の手を取り、ごめんなさいねと続けた。
「御崎に、あなたの淑女教育を提案したのも私なの。どうせ作法のさの字も知らないのだろうし、厳しくすれば3日も持たないと思った。でもあなた、私が考えていたよりもずっと頑張り屋さんだったわ。私には、それがとても意外だった」
「……」
「あなたを見てるとね、氏より育ちとはよく言ったものだと思えたわ。人間の善し悪しは、家柄や素性で決まるものじゃない、本人の心がけ次第なんだって」
篠子はそこで、佐和子の手を自分の手のひらでぎゅっと握り締めた。
一方の佐和子は、自分の不明を深く恥じて俯いた。
おば様は、やっぱり素晴らしい人だった。
だって、あの幸太郎のお母さんなんだもの、話のわからない人であるわけがない。
ましてや、お金持ちであることを傘に着て、庶民を見下すようなことをするはずがない。
「ご、…ごめんなさい、あたし……早とちりして、おば様にすごく失礼なこと……」
「いいのよ」
恐縮して身体ごと後退りしようとした佐和子を引きとめて、篠子はゆっくり首を振った。
「今では、あなたを自分の娘みたいに思ってる。幸太郎は難しい子だけれど、あなたにだけは、心を許しているみたいだし……できれば添い遂げてもらいたいとも思うわ」
「おば様……」
「でもね、幸太郎が、由緒ある御崎の家、そして日本を代表する『MISAKI』という企業を継ぐ者だということを考えると、やはり出自というものを軽んずることはできないの」
もう十分だ、と佐和子は思った。
自分は、ちゃんと篠子に認めてもらった。
母親である彼女の口から、幸太郎と添い遂げる資格があると言ってもらえた。
自分にとって、これ以上に嬉しいことなんてない。
だから……今ここで、幸太郎のために身を引いて欲しいと言われれば、自分は進んでそうするだろう。
それが、こんな自分に良くしてくれた人たちに対する、せめてもの恩返しになるのなら。
だが、篠子の口から出た言葉は、佐和子の考えていたようなものではなかった。
「それでね、加賀美さんに相談したの。幸いなことに、快く承知してくださったわ。あなたを養女にして、加賀美の家からこの御崎に嫁がせてくださるってこと」
能登の加賀美といえば、地元では知られた名家ですもの。誰からも文句の出る筋合いはないわ、と篠子は会心の笑みを浮かべたが、佐和子の思考は一時停止していた。
自分が、……加賀美の家の養女になって、……御崎に嫁ぐ?
嫁ぐって、文字通りお嫁に来るってことだよね。
あたしが、御崎の家のお嫁さん?
それって、もしかして……。
ええーーーーー?!
「御崎も、陰で見ていてあなたの頑張りには絆されたみたい。この縁組には賛成してくれているわ。頑固に見えて、情には脆いのよ」
篠子は、実の娘にするように、手を伸ばして佐和子の黒い髪を梳いた。
佐和子は、そうされながら感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。
加賀美夫妻も、それを微笑ましげに見守っている。
「旧家に嫁ぐって大変なことだけど、あなたなら頑張れると思う」
「おば様、それから加賀美の家のお2人にも……ありがとうございます。あたし、精一杯努力します。皆さんのお志しに報えるように」
「そうそう、その意気よ。あなたはその健気で一途なところが長所なんだから」
初春の空の下に、和気藹々とした朗らかな笑い声が響いた。
これで、万事上手くいく。
そこに居合わせたすべての人が、そう思った。
「おやまあ、実の母親の男を誑かそうとして家を追い出された淫売が、今じゃ一端のお嬢様気取りかい? 良い身分になったもんだね、佐和子」
突然現れたその女が、彼女の姿を認めて蒼白になった佐和子に、蔑むような口調で言い放つまで。
つづく
2012年12月16日 beloved トラックバック:- コメント:0