beloved =10=
佐和子には、一瞬、何が起こったのかわからなかった。
抗う気力も果て、ほとんど諦め半分で瞼を閉じていた彼女の耳に入ってきたのは「痛い」と叫ぶ友里恵の声だった。
そろそろと目を開けると、股間に赤黒いものを勃ち上がらせたまま、何かに怯えたような表情で後退りする堀川の姿が見えた。
彼女の上方にいる横山は、彼女の手首を掴んだまま石のように固まっている。
いきなり、彼女の身体の上に、ばさりと黒いものが落ちてきた。
そして、微かに感じた愛しい人のにおい。
慌てて顔を上げると、そこには、まさに「鬼のような」顔をした幸太郎が仁王立ちになっていた。
「いい度胸だなあ、ええ?」
幸太郎ににじり寄られて、堀川が「ヒエエ」と情けない声を出す。
「自分が誰に何したかわかってんのか、コラ」
「すっ、すみません、ごめんなさい、友里恵さんに言われて、俺……」
ごつん、と骨のなる音がして、佐和子は思わずぎゅっと目を瞑った。
堀川がさらに情けない声になって、「うわわ、血が……」と喚いているのが聞こえてくる。
「汚ねえ手で触りやがって、この子飼いがっ」
「ごめんなさい、…お、俺が悪かったです、許して」
すっかり縮み上がった堀川の襟首を掴み、唇の端を歪めて幸太郎はせせら笑った。
堀川の鼻は無残に曲がり、そこから垂れた血がシャツの胸元を汚している。
「こいつはな、俺の女なんだよ。お前らみてえな雑魚が気安く触れていい玉じゃねえんだ」
「すみません、もうしません、すみません……」
「本当なら、お前がそこにおっ勃てたもん、ちょん切ったって飽き足らねえ。それとも、そうして欲しいか?」
「ひぃ……そ、それだけは勘弁して……」
「だったら、もう2度とこの御崎幸太郎に喧嘩売ろうなんて考えるな。とっとと失せろ」
幸太郎に突き飛ばされて、堀川はバンの外に転がり出た。
それから、おろおろと立ち上がると、ズボンを引き上げながら駆け出していく。
「ちょっと、堀川! あなた、この私を置いて逃げるつもり?」
屯倉に捕まったままの友里恵の叫びは、当然ながらあっさりと無視された。
「お前はどうなんだ、あいつと同じような目に遭いてえのか」
「とっ、とんでもありません!」
固まっていた横山は慌てて佐和子の手を離し、堀川と同じように転がるようにして逃げて行った。
車内には、いまだ憤りに身体を震わせている幸太郎と、佐和子だけが残った。
「幸太郎、あたし……」
「黙れ、今はお前の話を聞いてやれる余裕がねえ。帰るぞ」
そう言った幸太郎の横顔は、怒っているようにも悲しげにも見えた。
起き上がりながら、自分は幸太郎を傷つけたのだ、と佐和子は思った。
こんな光景を目の当たりにして、今まで通り彼が自分を愛してくれるはずがない。
多分、もう終わりだ……。
2人が車の外に出ると、友里恵は屯倉の手を振り払って幸太郎の前に立った。
「こんな真似をしてただで済むと思ってるの、私が何をしたって言うのよ?!」
幸太郎は、そんな友里恵を無言で睨みつけた。
友里恵は、さらに肩をそびやかして続ける。
「私がその卑しい子に何かしたんだと仰るならその証拠を見せなさい。それができないのなら私にも考えがあってよ。暴行か名誉毀損であなたを訴えることだって――」
友里恵の言葉は、それ以上続かなかった。
なぜなら、幸太郎が手の甲で彼女の頬を叩いたから。
「幸太郎っ」
佐和子は、さらに手を挙げようとする幸太郎の腕に縋って止めた。
こんな風に他人に暴力を振るう彼の姿を見たのは今日が初めてだった。
しかも、相手が堀川のような男ならまだしも、友里恵は佐和子と同じ女だ。
「どうして止める? 佐和子、お前はこいつに……」
「だからって、暴力はダメだよ! 相手に何か酷いことをされても、それに対して暴力で返したら、相手と同じところまで堕ちることになる。幸太郎がそんなことする必要ない」
蔑まれるのは自分だけでいい。
これ以上、誰かが傷つくのを見るのは嫌だ。
そんな佐和子に、幸太郎は大きく嘆息する。
「わかった、佐和子に免じて今日はこれで許してやる。だがな友里恵、お前は俺が今まで出会った中で最低の人間だ。どんなに家が裕福だろうと、容姿が美しかろうと、他人の痛みがわからないやつには価値がない。それを覚えておくんだな」
友里恵は、それを鼻であしらい、指先を幸太郎の胸に突きつけて言った。
「御崎幸太郎とは思えないその台詞、そっくりそのままあなたにお返しするわ。これがどういう意味かご自分の胸に手を当ててお考えになったらすぐに分かるでしょう」
「俺はもう、以前の俺じゃねえ」
「はっ、ご立派なものね。あれだけ好き勝手に人を傷つけて、いろんな女を泣かせてきたくせに、今じゃすっかり改心して他人に説教? いいご身分ですこと、冗談じゃないわ」
友里恵の言葉に、幸太郎ははっと息を引いて拳を握った。
確かに、友里恵の言う通りだった。
佐和子に出会う前の自分は、誰かに自慢できるような人間でも、ましてや他人に説教できるような人間でもなかった。
だが、佐和子の存在が俺を変えた。
今なら、わかる。
自分の行いがどんなに他人を傷つけてきたのか。
「……行くぞ、佐和子」
幸太郎は佐和子を促して歩き出した。
これ以上は聞けない。
否……佐和子の耳に入れたくない、というのが正直な気持ちだった。
「覚えておくのは、私じゃない……御崎幸太郎、あなたの方ですわ」
悟ったような口調で友里恵は言った。
「あなたもいつか、ご自分の行いの報いを受けるときが来るのですわ。せいぜい、その日を楽しみにお待ちになることね」
予言めいたその言葉に、幸太郎は柄にもなく背中がぞっとした。
思わず佐和子の肩を抱き寄せながら、幸太郎は考えた。
佐和子には、友里恵の言った言葉の意味がわかっているのだろうか?
そして、彼女と知り合う前の俺がどんな男だったかを知っても、佐和子は俺を慕ってくれるのだろうか?
自分の犯した罪の報いを受ける覚悟はある。
それが、自分にとって必要な試練であるなら。
それでも。
ただ、ひとつ……佐和子を失うことだけは耐えられない。
他の全てを失くしたとしても、佐和子だけは。
つづく


2012年12月07日 beloved トラックバック:- コメント:0