はじめてのおつかい =3=
「えーと、佐和子ちゃん?」
「はい?」
「副社長のオフィスにご案内するわ。こちらへどうぞ」
副社長室のドアを開けて、彼女を中に通す。
彼女は、初めて見るオフィスが珍しいのか、きょろきょろと周りを見回した。
それから、大きなデスクの前の、肘掛の付いた椅子に座ってクルクルと回転させてみたり、デスクの上に置かれた既決・未決のトレイの中を覗いてみたりもしていた。
子供っぽい彼女の振る舞いは微笑ましいけれど、私にしてみれば、これだって驚きだった。
自分が不在の時には、専属秘書の私ですら入室すれば嫌な顔をされるというのに、彼女には笑顔でここにいることを許すなんて。
私は嘆息しながらそこを出て、副社長に言われた通り、彼女のために紅茶とお菓子を用意した。
私が戻った時には、彼女は1枚ガラスの窓の側に立って、外を眺めているところだった。
トレイを応接セットのテーブルに置いて、彼女に声をかける。
「どうぞ、大したお構いはできないけど」
「あ……すみません、お忙しいのにお手数かけて」
彼女は、殊勝な顔で頭を下げた。
若いのに、こういう言い方のできる子なんだなと思い、あらためて彼女を眺める。
以前に会ったことがあるように感じるのは気のせいだろうか?
「あなた、確か苗字は、松……」
「そうです、松原……松原佐和子です」
私は頷く。
思い出した……あれは夏の初めのことだ。
私は、ある少女の周辺調査を興信所に依頼したことがある。
副社長直々に、しかも極秘でということだった。
彼がどうしてそんな少女に興味を持つのか不思議ではあったけれど、それは一秘書の知るべきことではないと思い、そのときは詮索もしなかった。
少女の名前は、松原佐和子。16歳。
その時に送られてきた調査報告書には、私も目を通している。
父親とは生まれる前に生き別れ、母親は現在行方不明。
兄弟や頼れる親類などもなく、彼女はほとんど天涯孤独であるというような記述があったように思う。
添付されていた写真の、真っ直ぐ前を向いた強い眸が印象的だったのを覚えている。
松原佐和子……間違いない、彼女だ。
雰囲気はすっかり柔らかくなって、あの時見た写真のような強い印象は薄れてしまったけれども。
調査報告書によれば、彼女はあの少し前に家出をして消息不明のはずだった。
そんな彼女が、なぜ今ここでこうしているのだろう。
しかも、調査を依頼した本人の御崎幸太郎と、とても親しげな様子で。
「佐和子ちゃん、あなたと副社長は、ご親戚か何か?」
「いえ……違います」
「一緒に暮らしているのではないの? さっきの書類も、家に忘れていたのを届けに来たと言っていたけど」
「それは……あの、これにはいろいろ事情があって、あたしの口からは言えません。良くしていただいて申し訳ないんですけど、必要があれば幸太郎がお話すると思いますから」
この少女は、副社長のことを「幸太郎」と呼び捨てにしている。
それだけでも、彼女と副社長がかなり親しい間柄なのだということを物語っているように思えた。
「そう……それなら、無理には聞かないけど」
私が言うと、彼女は安心したように微笑んだ。
「あの……失礼ですけど、お名前、聞いてもいいですか?」
「ああ、まだ名乗ってなかったかしら? 私は、関口美貴子。副社長付きの秘書よ」
「関口さん……」
彼女は口の中で呟いてから、何を思ったか深々と頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします」
礼を言われるほどのことをした覚えはなかったし、何をよろしくお願いされるのかもよくわからなかったけれど、彼女のこういうところは好ましく思えた。
「上から見る噴水も、綺麗ですね」
彼女は、窓の外に視線を戻し、ガラスに額をくっつけるようにして言った。
私も、つられて彼女の隣に立ち、下を見た。
「ああ、あの噴水ね……あれは、我が社のトレードマークみたいなものなのよ。地域の憩いの場みたいにもなってるし。夏の間は、よく子供が水遊びしたりしてたわ」
「へえ……」
「私、会議室の方にコーヒーをお出ししてくるわね。あなたの分の紅茶も、冷めないうちに飲んでくれると嬉しいけど」
「あ、はい……ご馳走になります。ありがとうございます」
そう言った彼女に頷いて、私は副社長室を後にした。
会議室の面々にコーヒーを出した後、私は自分の細々した仕事を片付けた。
重役秘書、というと聞こえが良いが、実は雑用の多い何でも屋のようなものだ。
仕事の内容自体は、総務にいるコピー取りやお茶汲みの女の子たちと何ら変わりはない。
一段落したところで、副社長室にいる佐和子ちゃんの様子を覗きに行った。
……が、室内に彼女の姿はなかった。
「おかしいわね……トイレにでも行ったのかしら」
とりあえず、さっき彼女に出したカップなどを片付けてしまおうと思った私は、応接セットのソファで彼女を見つけた。
彼女は眠っていた。
ソファの肘掛に頭を預け、あどけない寝顔を見せて。
あら、まあ……なんて長い睫毛。
私は、童話の眠り姫を思い出し、それからガラでもないと苦笑いを洩らした。
彼女といると調子が狂う。
彼女とは、今日初めて会ったのに、放って置けないような気になるのはなぜだろう。
この、松原佐和子という少女には、他人がそう思わずにはいられないような、手を差し伸べずにはいられなくなるような、天性のものがあるに違いない。
彼女を起こしてしまわないように、そっとカップを片付けていると、いきなり勢いよくドアを開けて、この部屋の主が戻って来た。
御崎幸太郎……実際、溜息の出るほど綺麗な人だと思う。
最初に、この恵まれた御曹司の下で働くことになった時には、天は二物も三物も与えるのだなと感心したものだ。
有能だけれど、横柄で傲慢で、他人のことなど慮ってみたこともないような男。
彼と、目の前のソファで眠っている少女の取り合わせが、今ひとつピンと来ない。
「佐和子は?」
開口一番に、彼は訊いた。
「お休みになってますわ、そこで」
私は手でソファを示した。
彼女の姿を眼にした途端、彼の表情が一気に和む。
「思ったよりも時間がかかったからな……待ちくたびれちまったか」
ひとりごとのように言って、彼は絨毯の上に片膝をついた。
御崎幸太郎が、誰かの前に跪く。
私にとっては思いもかけない光景だった。
もともと、他人に頭を下げることすら嫌がる人だ。
それがあんまり自然だったから思わず見過ごしてしまいそうになったけれど。
「佐和子……」
彼の長い指が、少女の黒い髪をそっと撫でる。
それから、身を屈めて彼女の額に軽く口づけた。
「んー……」
彼女がゆっくりと目を開ける。
さしずめ、王子様のキスで目覚めるお姫様といったところか。
「あ、幸太郎……会議、終ったの?」
「ああ。待たせちまって、悪かったな」
「ううん、そんなことないよ。あたしこそ、こんなところで寝ちゃってごめん」
彼女は起き上がって、恥ずかしそうに小さく笑う。
「さてと、飯でも食いに行くか」
「お仕事は? もういいの?」
「飯のあとでお前を家まで送って、それから戻って片付けるさ。そのくらいの時間の融通は利くだろ?」
「はい……調整しておきます」
本当は、口で言うほど簡単な作業じゃないんだけど。
副社長のため、と言うよりは、この佐和子という少女のために都合をつけてあげようと思った。
それから、すでに「世界は2人のために」状態の彼らを、エレベーターまで送っていった。
「それじゃ、関口さん、お世話になりました」
「いいえ、どういたしまして」
彼女が小さく手を振る。
私は、御崎幸太郎の秘書として2人に頭を下げた。
顔を上げたとき、閉じていくドアの向こう、彼が待ちきれないといった様子で彼女を抱き寄せ、唇にキスするのが見えた。
そのとき感じた、胸がきゅんとするような切なさはなんだったのだろう。
しばらくそこに立って考えてみたけれど、とうとう答えは出なかった。
つづく


2012年12月03日 ill-matched ? 番外 トラックバック:- コメント:0