はじめてのおつかい =2=
私は、今朝の会議で出す予定のコーヒーの袋を抱えて、ロビーを突っ切ろうとしていた。
私の上司は、こういうものにすごくこだわりがある。
相手の格に合わせて、飲み物もそれを淹れるカップも変える。
今日の会議の相手は大事な取引先だから、コーヒー豆も特別にブレンドして挽いたものを用意した。
「つべこべ言ってないで早く取り次いで!」
多くの人が行き交いざわついていたロビーに、そのざわめきを劈くような大声が響いたのはそのときだ。
私は慌てて、声の方を振り返った。
華奢な身体つきをした若い女の子と、受付に詰めている女子社員が、何事か押し問答をしているようだった。
私は、眉を顰める。
受付とは、社を訪れた方たちを、文字通り最初に応対する場所だ。
その、社の顔とも言うべき彼女達が、来客と揉めるとは何たること。
「ちょっと、あなた達、何を揉めてるの」
私はハイヒールの音を響かせて受付に寄り、キツイ口調で一喝した。
カウンターの向こうで困った顔をしていた彼女達は、それで一気に縮こまる。
「関口さん……」
「関口さん、じゃないでしょう。一体全体、何の騒ぎ?」
「困ってるんです、この子が……」
そう言って、カウンターの前で肩を怒らせている少女を視線で示す。
「アポなしでいきなり訪ねて来て、副社長に会わせろって聞かないんですよ」
「まあ、副社長に……?」
私が呟くと、彼女が顔をこちらに向けた。
その瞬間、私は、軽く息を飲んだ。
なんて深い、惹き込まれそうな漆黒の瞳。
「あなた、副社長に何のご用があっていらしたの?」
「あたし、幸太郎……じゃない、副社長さんに頼まれて、持って来たものがあるんです。これが今朝の会議までに間に合わないと、彼が困るんです」
彼女は、とても真摯な様子で言った。
「お願いします。彼に会わせてください」
彼女の表情には、ヒヤカシや面白半分な感じは全くなかった。
多分、彼女は真剣に副社長に会いたがっている。
その理由はわからないけれども。
かといって、事前にアポのない訪問者を、誰でも彼でも階上(うえ)に上げるわけにはいかない。
それでは、キリがなくなってしまう。
私は、彼女に向かって言った。
「いいわ、案内してあげる。私に付いて来て」
「ち、ちょっと本気ですか、関口さん?」
受付の2人が、驚いたように私を見る。
「ここは私に任せなさい。後のことは、私が責任を持つわ」
私は、彼女を促した。
「いらっしゃい、こっちよ」
彼女は、ホッとしたように頷いて、素直に私に付いてきた。
まるで、飼い主のあとを追う子犬のようだった。
エレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。
同乗者はおらず、箱の中には、私と彼女の2人きりだ。
向かい合った彼女は、とても小さくて華奢だった。
「副社長に届け物があるようなことを言っていたけど……?」
「あ、はい……これ、なんです。今朝の会議で使うからって」
そう言って、胸に大事そうに抱えていた茶色の大判封筒を差し出す。
封筒の表には、「
MISAKI」の社名が入っている。
表書きを見て驚いた。
――総武デパート出店要綱 <外部持出厳禁・極秘扱>
これは確かに、重要書類だ。
重役以上か、プロジェクトに関わる人間以外には、持ち出しどころか閲覧すら禁じられているほどの。
そんなものを、どうしてこんな少女が持っているのだろう?
「これを……副社長が、あなたに預けたの?」
「預けたっていうか……家に忘れていたのを届けてくれって」
「……そう」
彼女は多分、この書類が何なのか知らずにここまで来たのだろうが、私は、「あの」副社長がこんな少女に大切なものを届けさせるという行動を取ったことに驚いていた。
完璧主義の彼が……いくら非常時とはいえ、ずいぶんと軽率な。
「あの……これ、預かってもらえます?」
「私が預かるのは構わないけど。あなたが頼まれたのだから、あなたが直接お渡しした方がいいと思うわ。そうじゃない?」
「ああ、そうですね……あたしが責任持って本人に届けるべきですよね」
彼女は、今時の若い子には珍しく「責任」なんて言葉を口にした。
「そういえば、あなた……」
お名前は、と言おうとしたところで、エレベーターが目的の階に着いてしまった。
エレベーターを下り、静まり返ったフロアを突っ切って奥へと向かう。
「階上(うえ)へは、通常のエレベーターでは行けないから」
私は、大人しくあとを付いてくる少女に向かって言う。
彼女は、少し首を傾げ、小さく頷いて見せた。
「もう1度、これに乗ってね」
専用のエレベーターに乗り換えて、本当の最上階へ。
このフロアには、社長室と副社長室、それと重役会議に使う会議室しかない。
一般社員は、特別の許可がない限り足を踏み入れることもできないフロアだ。
廊下の先に、目指す人物の姿が見えた。
御崎幸太郎。
この「
MISAKI」の現社長である御崎巌を父に持ち、自らも副社長を勤める男。
将来は、間違いなく「
MISAKI」の事業と由緒ある御崎の家を継ぐはずの御曹司。
そして彼は、私の直属の上司でもあった。
「副社長……」
呼びかけようとした私よりも先に、となりを歩いていた少女がその名を呼んだ。
「幸太郎!」
一瞬、聞き間違いかと思った。
この子、副社長のことを幸太郎と呼んだの?
けれども、私がもっと驚いたのは、そのときの彼の顔だ。
彼……御崎幸太郎は、彼の名を呼んで駆け出した少女に気付いて、顔をほころばせた。
それは、私が今まで見たこともなかったような穏やかな表情だった。
意表を突かれた気がした。
この人でも、こんな顔することあるなんて……。
「佐和子」
少女を招き入れるように、彼がゆっくりと片手を伸ばすと、「佐和子」と呼ばれたその少女は、抱きつかんばかりの勢いで彼の側へと走り寄った。
「幸太郎、これ」
彼女が例の封筒を差し出すと、彼はニッコリと微笑んだ。
「おう、サンキュー。ちゃんとお使いできたじゃねえか、偉かったな」
「あたしだって、そのくらいの役には立つよ」
彼が、少女の頭を撫でる。
それはそれは、愛しげに。
「助かった。これがねえと、大恥かくとこだった」
「もぉ、変なところで抜けてるんだから」
抜けてるんだから……私の知る御崎幸太郎には1番似合わなそうな言葉だった。
私の、彼に対するイメージは、何事にも完璧を求め、妥協を許さない厳しい上司だ。
「せっかくだから、会議が終るまで待ってるか? 昼飯、一緒に食おうぜ」
「うん! でも、どこで待ってればいい?」
「俺のオフィスにいればいい」
「いいの? 幸太郎のいない間にお仕事の部屋に入っても」
「構わねえよ、大したもん置いてねえし。まあ、子供が遊んで楽しいオモチャもねえけどな」
「もうオモチャで遊ぶような歳じゃないもんっ」
普段の彼からは想像もできないような会話。
彼よりも10歳は若そうな女の子を相手に、楽しそうに笑いながら。
「関口」
いきなり声をかけられて驚く。
私に対する彼の口調には、目の前の少女を呼んだときのような親しさはない。
いつも通りの……そう、これがいつもの……御崎幸太郎のものだ。
けれど、続いて彼の口から出た言葉に、私はさらに驚かされた。
「悪いけど、こいつに何か出してやってくれ」
悪いけど?
彼の秘書になって以来、いくら私が彼の部下だとは言え、今の今までそんな台詞を聞いたことがない。
彼には、謙譲とか感謝とか、そういう感情が欠落しているのではないかと思っていたくらいだ。
「は、はい……かしこまりました」
「それじゃ、佐和子。俺が戻って来るまで良い子にしてんだぞ」
「はぁい」
彼は笑顔でひらひらと手を振ると――もちろん、私にではなく、隣りに立っている少女に向かってだ――ご機嫌な様子で会議室の中へと消えた。
つづく


2012年12月03日 ill-matched ? 番外 トラックバック:- コメント:0