Sweet Emotion =1=
教室の窓から見える校庭では、大きな桜の木々が、残り少なくなった薄いピンク色の花びらをはらはらと散らせている。
この間までは、短い命を誇るように満開の花を咲かせていたのに。
新学期が始まって数日が経っている。
進級直後は浮ついていた教室の雰囲気も、少しずつ落ち着いてきた感じだ。
「柚月、ヤバイって。アキちゃん、すっごい見てる」
となりに座る愛美から低い声で囁かれ、窓の外を眺めていたあたしは、慌てて視線を教壇に戻した。
教壇に立つ教師は、少しだけ咎めるようにあたしを見、それから「やれやれ」といった風情で教科書に目を落とす。
「セーフ……サンキュ、愛美」
小声で礼を言うと、愛美は苦笑を返した。
やがて教師が黒板に向かい、同時に、教室の中が一斉にほうっと息を吐いた。
彼に言わせれば「シンプルで面白い」くらいの、複雑な数式も関数のグラフも、高校生にはそんな崇高な世界を楽しむ余裕なんかありません。
それでも、あたしは数学が好き。
先生が、教えてくれる数学が好き。
他の先生に教えてもらっても、きっと、ううん絶対、好きにならなかった。
だって……数学だよ?
あたしは、きっぱりと伸びた教師のうしろ姿を眺めがなら思った。
「この公式はよく覚えておいてね。テストに出るよ」
その言葉に、ノートを捲る音や、慌ただしくペンを動かす音が、教室のあちこちから聞こえてきた。
テストに出ても出なくても、公式は覚えるべきなんだろうけど。
そんな生徒達の様子に、教師は少し複雑な表情で苦笑を浮かべる。
教師の名前は、荻野太陽先生。
通称アキちゃん。
寝癖の頭に、黒縁眼鏡。
お世辞にもかっこいいとは言えないこの数学教師が、あたしの理想の男性像。
あたしと荻野太陽先生――初めての出会いは一昨年の今頃。
入学式で、教師席に座るこの冴えない教師を見たときに閃いた。
か、かっこいいっ――。
何気なく眼が合った瞬間、全身に電気が走ったような衝撃。
自分が求めていたのはこの人だ! と確信できるくらいの。
今まで生きてきた15年か16年の間で、そんな気持ちは初めてで。
まず、名前がイイ。
太陽って書いて、アキラって読む。
あの「朝起きて、鏡も見ないでそのまま来ました」って感じの無造作に乱れたヘアも、なんとも言えない。
それから、今時珍しい黒縁の冴えない眼鏡。
ある意味、これが似合うってすごいし。
極めつけは、いかにも数学者って感じの野暮ったさと無愛想さ。
とにかく、彼の何もかもが、今まで知り合ってきた人たちとは違う!
そう思った一瞬の後、あたしは確信していた。
間違いない、この人だ。
あたしたちは出会うべくして出会ったんだ。
この人こそ、あたしの運命の人なんだ、と。
それでも、その1年間は、あたしのクラスの数学を担当するわけでもなく、特別にクラブの顧問をしているわけでもなく、またクラス担任でもない荻野先生との接点はまったくといっていいほど皆無で、あたしは、校内で時々見かける先生の姿を遠くから眺めるだけで、溜息をつきながらも満足しなくちゃならなかった。
そんなわけで、2年生になったあたしのクラスの数学を担当するのが荻野先生その人だと知ったときには、思わず小躍りしてしまったくらいだ。
苦手、というよりむしろ嫌いだった数学の勉強も、人が変わったように頑張った。
それもひとえに、先生に好印象を持ってもらいたいからって不純な動機。
まともな生徒なら寄りつきたいとも思わない数学教科準備室にも、質問に託けて足繁く通った。
極め付けは、3年生への進級試験の白紙答案。
自分でも、少し無謀だったかな、と今さらながらに反省してしまうくらいの暴挙だったけど、せめて補習でも先生に会いたかった。
どうしても先生とお近づきになりたかった。
その成果は、果たしてあったのか、なかったのか……?
とりあえず今、あたしは無事に3年生に進級することができ、こうして憧れの荻野先生の授業を受けている。
先生のうしろ姿が好き。
180センチくらいはある長身の、細くてすっきりと伸びた背中。
いつもは先生のこと「野暮ったい」だの「イケてない」だの言ってる愛美やエリカも、うしろ姿だけはカッコいいって認めてるくらいにステキ。
あと、先生の指が好き。
チョークを持つ、細くて長い指。
育ちの良さそうな、きれいに揃った爪も。
それから、先生の話し方も好き。
ゆっくりと、低く静かに話す、落ち着いた柔らかい声。
とにかく、先生はあたしの理想の固まりで。
こんな素敵な人、これからどんなに長生きしたって、もう一生出会えないかも知れない。
「柚月ー。授業、終わってますよー?」
気が付くと、愛美が顔の前で手を振っていた。
「まったく……またアキちゃんに見惚れてたんでしょう? 一体どこがいいんだか」
ポンポンと背中を叩かれたあたしは、教壇で帰り支度をしている教師に視線を移す。
「どこって、もちろん全部だよ。先生のすべてが好きなんだもん」
25歳・独身……のわりには、存在感が薄い。
生徒に囲まれて談笑しているところなんか、見たことがない。
授業もとことんマイペース。
野暮ったいイメージがあまりにも強すぎて最初から敬遠されているんだろうけど、1度でも質問に行った生徒達には、実はわりと評判がいいって聞く。
「思ったよりも優しくて親切で、どんなバカにも分かるように根気強く説明してくれて、しかも嫌な顔ひとつしないで付き合ってくれる」
憧れの先生がそんな風に評される度、自分が褒められているような気がして誇らしくなる。
「そりゃ、蓼食う虫もって言うけどさ」
教室を後にする先生を目で追いながら、すっかり見惚れているあたしに向かって、愛美は大げさな溜息をついた。
「だからって、なんでアキちゃんなの? 柚月ってば、かわいいし大金持ちだし、それこそ3拍子も4拍子も揃った御曹司が回りにたくさんいるだろうに」
そんな愛美の言葉に、あたしは大きく首を振る。
「御崎の名前に惹かれて寄ってくるボンボンは願い下げだよ。御崎の一人娘としてじゃなく、普通の女子高生として扱ってくれる先生が好きなの」
「あたしにしてみれば、ただの野暮ったくて冴えないオヤジだけどね」
「まあねえ……洗練された野暮ったさっていうか?」
わざとらしくウットリとした表情を浮かべて言うと、愛美はプッと吹き出した。
「今までのアキちゃんからは、とても洗練されたってイメージは持てないよ」
「そうお?」
尻上がりに言い返したとき、担任が現れて帰りのHRが始まった。
つづく


2012年09月04日 Sweet Emotion トラックバック:- コメント:0