calm =2=
その事故があった日のことは、今でもはっきり覚えてる。
この島がサーファーに人気がある理由は、島の周りをぐるっと珊瑚礁が取り囲んでいるからだ。
おかげで波に独特のうねりが生まれて、サーフィンの醍醐味みたいなものを味わえるらしい。
でも、その醍醐味と危険は常に背中合わせ。
少しでもバランスを崩して波に揉まれでもしたら、びっしりと生えた珊瑚で大怪我をすることは必至だ。
最悪の場合は命を落とすことにもなりかねない。
この島に魅せられてコテージを始めたお父さんも、向こう脛を切ったことがある。
その傷は今も生々しく残っているけど、それでも病み付きだって言うんだから、もうどうしようもない。
サーフィンをしないあたしにはわからないけど、波乗りには取り憑かれるほどの魅力があるんだろう。
夏休みに入ったばかりで、あたしはいつものようにデッキに出て、手摺に肘をついて沖を眺めていた。
幾島さんのライドには独特の癖があるから、遠くからでも彼の姿はすぐに見つけられる。
そのときも、彼は大きな波に果敢に挑戦して、1度はサクセスしたように見えた。
でも、その一瞬後。
彼のボードが、ジャンプするイルカみたいに宙を舞って。
そこにいるはずの幾島さんの姿は、どこにも見えなくなった。
彼が落ちたということに気づくのと、お父さんがボートで海を突っ切って行くのが見えたのは同時だった。
幾島さんに何かあったらどうしよう……そんなことを考えたら、鼓動が早くなって、息が苦しくなって、脇の下に嫌な汗をかいた。
お客さんが落ちて怪我をするのは何度も見た、なのに、こんな気持ちになったのは初めてだった。
ぐったりとした幾島さんがコテージのリビングに運び込まれる。
顔と、ウェアから露出していた腕に小さな掠り傷がいっぱいあった。
その上、肩の部分はラバー生地がぱっくり裂けて、大きな切り傷から血がどくどく出ていた。
血を見るのは苦手だ。
こっちが貧血を起こしそうになる。
そのうち、お父さんが彼を助けに行っている間にお母さんが呼んだのか、この手の事故でもう顔馴染みになっている近所のお医者さんが駆けつけて来て、見事な手際で縫合の応急処置をしてくれた。
幾島さんは意識こそはっきりしていたけれど、自分がこんな事故に遭ったことはショックだったようで、力なく片腕で顔を覆っていた。
その夜、彼は夕食の席にも姿を見せなかった。
翌日、遅く起きたあたしは、デッキで幾島さんに会った。
彼は、帆布を張ったチェアに足を伸ばして、きらきら光る海を眺めていた。
「おはようございます」
「ああ、七海ちゃんか、おはようさん」
彼は、寝不足みたいな顔をしていたけど、声をかけるといつも通りに笑ってくれた。
あたしは、それを見て少し安心する。
「あの……昨日は、大変でしたね」
「ハハ、とうとうやりおったわ。この島で波に乗る以上、いつかは、思って覚悟はしよったけど」
幾島さんは、ちょっと眉を顰めて苦笑した。
「この程度の怪我で済んで良かった思えって、七海ちゃんのお父さんにも叱られたわ」
「しばらくはサーフィンも無理ですね」
「うん、1週間で抜糸やそうだけど、それまでは辛抱やね」
そう言って、沖に見える他のサーファーたちの姿を、彼は少し羨ましそうに眺めた。
その横顔を見て、ああ、この人はサーフィンが好きなんだなあと思った。
「でも、ここ田舎だから……他に何にもすることないですよね」
本当に、この島には娯楽らしい娯楽がない。
あるのはカラオケボックスとパチンコぐらいだけど、そのどちらも幾島さんのイメージじゃない。
「ほんなら、七海ちゃんが付き合うてくれるか?」
「……はい?」
一瞬、聞き違いかと思って聞き返すと、幾島さんはごしごしと頭を掻いた。
「いや、無理にとは言わんけど、他に優しく怪我人の相手してくれそうなやつもおらんし」
咄嗟になんと答えていいかわからず黙ったままでいると、彼は「嫌やったら遠慮せんと正直に言ってな、怪我人やからて気使うことないし」と慌てて付け足した。
「嫌なんてことないですよぉ、全然。あたしで良かったらお付き合いします」
「ありがとう。したら、早速やけどベッドに行こか?」
「えっ?!」
思わず固まったあたしに、幾島さんは朗らかな声を上げて笑った。
「冗談、冗談。でも、からかい甲斐のある女の子は好きやで」
ほんま可愛いからなあ、七海ちゃんは。
言いながら、幾島さんは大きな手のひらであたしの頭を撫でた。
つづく


2012年08月31日 calm トラックバック:- コメント:0