SCOOP! =2=
お互いに息が続かなくなって、やっと唇が離れる。
あたしは、水槽から飛び出した金魚みたいに、口をぱくぱくさせて呼気を求める。
鼻の頭が触れ合うくらい近くに、蒼の顔がある。
伏せた睫毛が長くてきれい。
頭の中が、酸欠で少しぼうっとしてる、そんな状態でそんなことを考えた。
蒼は、あたしの額に自分の額を押し付けるようにしてじっとしてる。
だからあたしも、助手席のシートに縫い付けられたままでいる。
時間が止まってしまったみたい。
だけど時どき、彼の洩らす吐息が頬のあたりに落ちてくすぐったい。
あたしは、指先で彼の唇に触れる。
蒼は、それを甘く噛む。
そうしながら、彼は長めの前髪の隙間から目を眇めるようにしてあたしを見つめ、やがて小さく嘆息した。
「藍……」
あたしの名前を呼んでくれる彼の声が、好き。
彼が口にすると自分の名前すら甘く響くから、不思議だ。
でも、そのときの彼の声音には切ないものが混じっていた。
「なに?」
あたしも、彼を見つめ返す。
彼の瞳はひどくやるせない色をしていて、胸がきゅうっと締め付けられる。
蒼は、言いたいことがあるのにそれを我慢する人のように口を結び、首を横に振った。
「いや、何でもない」
「嘘、すごく辛そうな顔してるもの」
それを聞いて、蒼はほんの少し苦く笑う。
「……お見通しなんだな」
「そんなんじゃないけど……ただ、蒼にはそんな顔していて欲しくないだけ」
「心配するほど辛そうに見えた?」
「うん、……なんか、いかにも思いつめてますって感じで」
あたしは、蒼の頬に両手を添える。
「ねえ、心配事があるなら聞かせて」
そう言ったあたしの言葉に、返ってきたのはやっぱり溜息。
なんだか悲しくなってくる。
あたしには、こういうとき、あなたのためにしてあげられることがひとつもないの?
蒼は、夢の世界に生きる人。
内心ではどんなものを抱えていても、それを垣間見せることすら許されない。
時どきは辛いだろう、苦しいだろう、大声で叫びたいときだってあるに違いない。
あたしなんかが愚痴を聞いてあげるくらいじゃ、気休めにもならないかも知れないけど、毒を吐いて少しでも楽になれるなら役に立ちたいのに。
「別に、藍が心配することなんてないんだ、ただ、世の中って、不公平だなと思ってさ」
言いながら、蒼は身体を起こして、運転席に背中をもたれさせた。
「不公平……?」
「だって、そうだろ? 俺自身はひとつも悪いことしてないのに、アイドルなんだからあれもするな、これもするなっていちいち制限されて、好きな子に会いにくることさえ、人目を忍ばなきゃならない。そんなの、不公平以外の何でもないよ」
言葉にするうちに興奮してきたのか、蒼は珍しく声を荒げた。
実際、蒼の事務所はタレントの管理が厳しいことで有名で、もちろん、恋愛もご法度だ。
アイドルは、夢を売るのが仕事。
ファンに憧れられ、恋愛感情に似た思いを抱かれてこそ、成り立つ商売。
プライベートがあからさまで生活臭のぷんぷんするアイドルに、誰が夢中になる?
ファンを蔑ろにして自分の恋人に鼻の下を伸ばしているアイドルに、誰が恋をする?
そういう意味では、タレントには徹底して「恋人はファンのみんな」というスタンスを貫かせる事務所の方針も、間違ってはいないと思う、けど。
好きな人がいるのにいないふりをするのって、当人にとっても、相手にとっても、辛い。
「こうやって、こそこそ会うの、もう嫌なんだ。もっと堂々としたい、みんなの前を手繋いで歩きたい、俺は君が好きだって、恋人だって宣言したい」
「…………」
彼がそう言ってくれるのは心から嬉しい。
でも、それは蒼の将来を阻むものにもなりかねないし、一時の感情に流されて、軽率に同調することはできなかった。
あたしが答えられずにいると、蒼は手を伸ばして、あたしの腕に触れた。
「賛成してくれると思っていたけど?」
「無理だよ……蒼のためにならないこと、賛成なんてできない」
「好きなものを好きだと言って何がいけない? 俺だってガキじゃないんだ、自分のしたいようにさせてもらう権利くらいはある」
「蒼の気持ちはわかるけど、桂木さんだって、そんなこと許してくれるとは思えないし」
「桂木さんなんて、この際、関係ないだろ!?」
蒼は、ハンドルに両手を叩きつけて大きな声を出した。
その剣幕に、あたしはびくっとして竦みあがった。
「ごめん、あたしの言い方が気に障ったのなら謝る、でも――」
「もういい」
あたしの言葉を遮るように、突き放す口調で蒼は言い、イグニッションに差し込まれたキーを、少し乱暴に捻った。
「帰ろう、送っていくよ」
「蒼……」
こんな風に、気持ちが噛み合わないまま別れるのは嫌だった。
だけど、怒ったような蒼の横顔に、次の言葉が出てこなくなる。
気まずい沈黙が車中に垂れ込め、それは結局、あたしの家の前まで続いた。
あたしが降りると、名残惜しそうな素振りさえ見せずに、蒼の車はすぐに走り去った。
あたしは、しばらくそこに突っ立ったまま呆然としていた。
蒼のことが、ちょっとわからなくなっていた。
つづく


2008年02月29日 SCOOP! トラックバック:- コメント:-