Love, Truth and Honesty =31=
『もしもし、藍?』
はたして、電話の相手は甲斐くんだった。
『良かった、やっと捕まえた』
電話が繋がってよほど安心したのか、はあ、という大きな溜息。
『急にいなくなるから心配したんだよ、もちろん無事なんだろうね、今どこにいる?』
矢継ぎ早に、耳元で響く声。
心配した、というのは嘘ではないと思う。
あたしが部屋にいないことに気づいてから、必死であちこち探し回っただろうことも、想像に難くない。
「……東京、だよ」
『東京?』
彼は一瞬、理解できない外国語を聞いたときのような、戸惑った声を出した。
まさか、あたしが東京に戻っているなんて思ってもみなかったのだろう。
現実として、あたしにはそうする手段(あし)がなかったはずだから、甲斐くんが驚くのも無理はない。
あたしだって、あのときは勢いで飛び出してしまったけど、あそこに蒼がいてくれなかったら、無事に帰って来れたか怪しいものだ。
『東京だって? 一体、何がどうなっているんだ、まるきりわけがわからない』
甲斐くんは、電話口でぶつぶつとそんなことを言った。
どうやってあたしがひとりで東京まで帰ったのか、訝しむような口調だった。
「心配かけたなら、謝るよ……ごめんね」
『ああ、いや……とにかく、藍が無事ならそれでいいんだ。朝早く散歩にでも出て、どこかで迷子になってたりしたら大変だと思っただけだから』
こういう言い方をするところが、甲斐くんらしいなと思った。
彼はきっと、まだあたしのことを想ってくれているんだろう。
あたしが彼の前から消えた理由も、皆目見当がつかないに違いない。
「大丈夫だよ、あたしはこの通り、元気でぴんぴんしてる」
『そう、それなら良かった。だけど、何も言わずにいなくなることはないと思うな』
苦笑交じりで、けれどどこか咎めるように、甲斐くんは言った。
ああ、やっぱりこの人は何も気がついてないんだ。
だったら、あたしは、彼に話すべきだろうか。
昨晩、自分が目にしたもののことを?
『まあ、いいや。僕もこれから帰るよ、藍がいないのにひとりで残っていても意味がないからね。東京に着いたその足で、藍の家に寄ることにする。君のご両親にも挨拶しなければならないし……』
「それは、いいの。とりあえず、一緒に帰ってきたことになってるし、親に余計な心配かけないように、甲斐くんからだって言ってお土産も渡してあるから」
そこまで言われて、甲斐くんは、やっと何かに感づいたようにしばらく口を噤む。
次に言葉を発したときには、探るような口調になっていた。
『藍……君、ひとりで帰ったのではないの?』
「……違うよ、迎えに来てくれた人がいたの」
それは誰かという問いを、口にするべきかどうか、甲斐くんは迷っているようだった。
聞かれても、答えられはしないけど。
「ねえ、甲斐くん……あたしたち、もう別れた方がいいと思う」
『え? 何を言い出すんだ、いきなり』
「甲斐君にとっては、藪から棒な話かも知れない。でもね、この数週間、ずっと考えてたことなんだ」
『数週間って、……だったら、どうして別荘まで着いて来たりしたんだよ? 藍だって、あんなに楽しんでたじゃないか』
甲斐くんの声が、微かな怒気を帯びる。
このことについては、反論できない。
いつまでもぐずぐず悩んで、甲斐くんと蒼、2人のうちのどちらかを選ぶことも、どちらを選ばないこともできなかったあたしが、1番悪い。
「あたし、好きな人ができて……でも、その人は本当なら好きになったらいけない人で、あたし……甲斐くんと別荘に行って、何日も一緒に過ごしたら、甲斐くんのこと、ちゃんと好きになれるかなって、そしたら、その人のことも忘れられるかなって思ったの」
『何だよ、それ』
そう言った甲斐くんは、明らかに怒っていた。
「でもね、その人、あたしのこと探して、迎えに来てくれたの。そのときに、あたしも思ったんだ。ああ、あたし、この人のこと諦めきれないって。これ以上、自分の気持ちに嘘なんてつけないって。それに気がついたから、甲斐くんとも、きちんと話そうとしたんだよ」
『それでも、実際には僕に黙って姿を消した。今さらそんなこと言うなんて卑怯だ』
「卑怯……そうだね、卑怯かも知れない。だけど、あたしが何も言わずに、…ううん、何も言えずに別荘を出たのは、甲斐くんが――」
そこまで言って、その先はやっぱり口にし辛くて、思わず言葉に詰まる。
『僕? 僕が何だって言うの』
自分には非はないとでも言いたげな口調に、あたしの中で何かが切れた。
蒼のことを言えなかったあたしも、もちろん悪い。
だけど、甲斐くんだって同じようなものだ。
あたしが知らないと思って、リビングであんな……あんな不潔なこと。
「あたし、見ちゃったんだよ。昨日の夜、リビングで……」
甲斐くんが、はっと息を呑む気配が伝わってきた。
それから、長い間があった。
実際には、2秒か3秒だったのかも知れないけど、恐ろしく長い間のように、あたしには感じられた。
それは、昨夜の出来事があたしの見間違いなんかじゃなく、実際に起こったことだと、甲斐くん自身が認めたということに他ならない。
『まさか、君……』
甲斐くんは、一気に狼狽していた。
あれは違うんだ、誤解なんだとしどもど弁解しようとする。
『彼女とは、付き合ってるとかそういうんじゃないんだ、向こうが勝手に押しかけてきただけで、少なくとも、僕の方に恋愛感情なんかない、僕が好きなのは藍だけだから――』
「もういいよ、止めて!」
言い募る甲斐くんを、あたしは遮った。
自分にこんな強い声が出せるなんて意外だった。
「あたしも、甲斐くんも、ちょっと間違えちゃったんだよ。近くにいたから、好きだとか錯覚しちゃっただけ。でも、お互いの求める人は別のところにいたんだよ、きっと」
『藍が求める相手は、僕じゃなかったと言いたいの』
「そうだね……うん、多分そうだと思う」
甲斐くんは、また少し黙ってから、不意に口を開いた。
『だったら、そいつの求めている人が、藍じゃなかったらどうするつもり?』
……痛いところを突かれたと思った。
それは、まさにあたしが恐れていることだった。
間違えたのはあたしでも、甲斐くんでもないのかも知れない。
そもそも、あたしと蒼が出会ったこと自体が、間違いであったのなら。
つづく


2006年11月12日 Love, Truth and Honesty トラックバック:- コメント:-