沈黙
帰り支度を終え、タイムカードを押して、事務所のドアを出ようとしたとき、内線電話が鳴った。
一瞬、聞こえなかったフリをしてやり過ごそうかとも思ったが、変なところで律儀な性分が顔を出し、俺は嘆息しながら受話器を取り上げた。
「もしもし」
「ああ、上条君ね、良かった、まだいてくれて。こちら、第一秘書室ですけど」
電話の向こうで、ほうっという安堵の溜息が聞こえた。
相手は、関口という副社長つきの女秘書だった。
「こんな時間で悪いんだけど、明日の朝一で処理して欲しい荷物があるの、階上(うえ)まで取りに来てもらえないかしら?」
階上(うえ)というのは、このビルの最上階を指す。
社長室、副社長室、来賓のための応接室、重要な案件にのみ使われる会議室などがあり、重役と特別な賓客以外は、社員でも許可を得たものしか足を踏み入れることができないという、文字通りのVIPフロアだ。
「ああ、構いませんけど……かさばりますか?」
俺は聞いた。
あまり大きいものや重いものだと、台車を用意しなければならない。
「そうね、ひとつひとつは大したことないけどちょっと数があるから、台車があった方が良いと思うわ」
やれやれ……案の定、彼女は面倒なことを口にした。
仕方なく、わかりましたと言って電話を切ってから、ついさっきタイムカードを押してしまっていたことを思い出す。
このあとは間違いなく賃金外労働だ、と少しけち臭いことも考えたが、もしもしという俺の第一声を聞いただけで上条君ねと名指しされてしまった手前もあり、行かないわけにはいかなかった。
どうも、彼女には目の敵にされているような節がある。
だからこそ、これを機会に、あの堅物の女秘書にひとつ恩を売っておくのも悪くない。
俺はもう1度嘆息してから、事務所の奥に戻って台車を引き出し、地下駐車場にあるエレベーターへと向かった。
最上階への人の出入りは徹底されていて、暗証番号を知る者しか乗れない専用エレベーターを使わない限りは、そこへたどり着くことさえできない。
俺の名前は、上条龍之介。
日本を代表する大手陶磁器メーカー「MISAKI」に勤めるメールボーイだ。
国内でも有数の大企業である「MISAKI」に毎日届けられる膨大な数の郵便物を、フロアごとに仕分けして配って歩くのが主な仕事で、逆に、「MISAKI」から取引先などに発送される書簡や荷物の手続きを代行したりもする。
つまり、社内に宅配便の出張所がひとつあると思えばいい。
発送を希望する荷物やなんかは、フロアごとに設置された所定の窓口に集められ、決まった時間に集配するが、あまりかさばるものや次の集配を待っていられない至急のもの、人目に触れる場所につんでおくには少々不都合がある親展やマル秘扱いの書簡などは、直接受け取りに行くことも多い。
メールボーイなんてカタカナの響きが軽いイメージだが、「MISAKI」という企業にとっては部外者が自由に社内を歩き回るわけだから、実際には結構信頼を必要とする仕事だ。
最上階に着き、秘書室に顔を出すと、そこにいたのは彼女だけだった。
ドアに近い壁際に、それぞれ個人を宛名にした20センチ四方ほどの小包が、いくつも重ねて置いてあった。
2人で手分けしてそれを台車に積んだあと、それじゃ失礼しますと声をかけてそこを出ようとすると、だったら私もと言って、彼女は机の上からバッグを取った。
どうやら、彼女はひとりで残って、梱包やら宛名のラベル貼りをしていたようだ。
秘書ってのも意外と大変なのかもなと俺は思った。
俺は台車を押しながら、彼女と一緒に秘書室を出た。
エレベーターに乗り込むと、彼女はちらりと腕時計を覗き、それから俺を見た。
「もしかしたら、もう帰るところだったんじゃない? 面倒なこと頼んでごめんなさいね」
「別に、構わないスよ」
答えながら、俺はちょっと意外な気がして彼女の顔をまじまじと見てしまった。
俺の記憶が確かなら、彼女が俺に謝罪の言葉を口にするなんて今までにないことだった。
「……何?」
「いや、俺いつも関口さんには叱られてばっかだから、謝られちゃうとかえって緊張するっつーか」
「あらやだ、それじゃ私がよっぽど怖い女みたい」
「あ、スミマセン、そういう意味じゃないんスけど」
本人の手前、笑って誤魔化したが、実はそういう意味だった。
俺だって機械じゃないから、たまに手紙の仕分け間違いくらいはする。
そういうとき、彼女には言い分も聞いてもらえず、頭ごなしに怒られた。
美人のわりに頭の固い、お高く留まった女秘書。
俺は、そんな彼女が正直ちょっと苦手だった。
「いいのよ、上条君だって、私のこと、女のくせに融通の利かない堅物だって、思ってるんでしょう?」
「いや、別に、そんなことは……」
内心を見透かされてしまったような気がして、口ごもる。
狭いエレベーターの中、妙に気まずい沈黙が落ちた。
がくっと身体がよろけるくらいの衝撃のあと、ぶうんと嫌な音をさせてエレベーターが止まってしまったのはそのときだ。
「え、やだ、何なの?」
「わからないスけど……止まっちまったみたいっスよ、これ」
確かに、エレベーターは動いていなかった。
周囲はあまりにも静かで、赤く色づいたボタンの1という数字がやけに心細く見える。
「本当についてないわ、何だってこんなときに……」
「こんなとき?」
「……私ね、今日が誕生日なの、といっても、もう祝ってもらって嬉しい歳でもないけど」
「じゃあ、これから誰かと約束でもあったんスか」
思わずそう聞いてしまうと、彼女はどこか自嘲気味な感じでふふっと笑った。
「まさか、こんなお堅い女、相手にする物好きはいないわよ。それに、よく言うじゃない、女はクリスマスケーキと同じだ、25過ぎたら見向きもされないって」
「今どき、そんなこと言うやついないっスよ、ていうか、関口さんっていくつなんスか」
「……27になったわ、今日で」
「まだまだ全然イケるじゃないスか、俺とだって5つしか違わない」
「5つしかなんて無責任な言い方して……そう言う上条君だって、そんな年上の女性と付き合おうなんて思わないでしょう?」
「いや? 年上は嫌いじゃないスよ、俺、ストライクゾーン広いから」
なんて言いながら、どうして俺、彼女の言うこと否定しようとしてんだろ、と思った。
今日が誕生日だからといって、俺が彼女を元気付けてやらなきゃならない謂れはない。
エレベーターはなかなか動かなかった。
「祝ってくれる人がいないなら、俺が、景気づけに歌でも歌いますか」
戸惑う心とは裏腹に、口は勝手に動いてそんなことを言っていた。
そうして俺は、彼女のためにハッピーバースディを歌ってやった。
照れ隠しに、大声を張り上げて。
「多分に同情が含まれているとしても嬉しいわね、上条くんみたいな若い人に祝ってもらえるなんて」
俺が歌い終わると、少し呆れたような声で彼女はそう言った。
「だから、そんな風に考える必要ないんですって。俺、関口さんきれいだと思うし」
「ありがとう、素直に褒められたと思っておくわ」
俺は正直な気持ちを言ったのに、彼女は、全然素直にそうは思っていない口調で答えた。
ちょっと、イライラした。
「プレゼントは用意してないから即席だけど」
言いながら、俺は彼女をコーナーに追い込み、それから有無を言わせずに唇を奪った。
当然のことながら、彼女ははじめ驚いていたが、やがて観念したように目を閉じた。
勝った、と思った。
もしかすると、この年上の女性から頭ごなしに叱られるたび胸に蟠った劣等感じみたものは、俺の心の中で紆余曲折を経て、恋心に似たものへと変化を遂げていたのかも知れない。
そうでなければ、自分のこの行動の説明がつかない。
しばらくして、エレベーターの管理事務所から復旧しましたとインタホンを通して伝えられ、また軽い衝撃があって箱が動き出すまで、俺たちはずっと唇を重ねていた。
その後は、「MISAKI」のビルを出たあと2人で飯を食い、彼女を家まで送っていったついでに部屋に上がってコーヒーをご馳走になり、それからベッドにもつれ込んで誕生祝いの続きをした。
ついでに言えば、取り澄ましていかにも有能な秘書然とした彼女の素顔は、この俺が1発で参ってしまうほど可愛らしい人だった。
これからは、仕事中の楽しみがひとつ増えそうだ。
そう思ってもいいかな、美貴子さん?
= fin =


2017年04月01日 妄想50題(拍手お礼SS) トラックバック:0 コメント:0