ここが君の家 =3=
どれほどの間、そうして床に転がったままの子機の前で頭を抱えていただろう。
突然、鳴り響いたベルの音に、俺は思わずびくりと身体を起こした。
慌てて子機を手に取り、通話のボタンを押す。
「もしもしっ」
勢い込んだ俺の声に、電話の向こうの相手がちょっと引いた気配がした。
それから、俺の期待していたのとは違う声――佐和子のものではなく、落ち着いた中年の男の声――が聞こえてきた。
「夜分遅く失礼します。御崎幸太郎さんとお話がしたいのですが」
「はい、私が御崎幸太郎本人ですが、そちらは?」
この部屋のことを知っているのはごく限られた人間だけだ。
見ず知らずの他人が、俺に名指しで電話をかけてこられるはずがない。
少なからずも警戒して、余所行きの言葉使いで答えると、声の調子でそれと気付いたのだろう、電話の相手は繁華街のど真ん中にある派出所の巡査長だと名乗った。
「失礼ですが、松原佐和子さんとおっしゃるお嬢さんをご存知ですか?」
佐和子の名前を聞いて、心臓が、大きく1度、脈を打った。
何か、佐和子に関する良くない報せでなければいいが。
「し、知っています。彼女が何か?」
「実はですねえ……」
巡査長は、言い難そうに口ごもったが、その口調には、どことなく軽い揶揄が含まれているように感じられた。
「その佐和子さんですがね、どうも迷子になられたようでして。こちらで保護させていただいているんですが」
「は? ……迷子?」
俺は一瞬、自分の耳を疑った。
言うに事欠いて迷子だと?
ふざけるのもいい加減にしろ、いたずら電話なら間に合っていると怒鳴りかけて、寸でのところで思いとどまった。
電話帳にも載っていないこの番号にわざわざ電話をかけてきて、俺を名指しで呼び出した上に、俺以外には知る由もないはずの「佐和子の行方不明」をネタにしたいたずら電話なんて、どう考えてもあるわけがない。
「佐和子が、迷子になって、派出所で保護されているとおっしゃるんですか?」
「そういうことになるでしょうなあ。ご自分がどこにいるかもわからないようなのでね」
ご足労ですが、引き取りに来ていただけますか、と巡査長は言った。
「すぐに行きます」
それだけを答えて電話を切った。
その数秒後には、車のキーを掴んで外に飛び出していた。
+ + + + +
パーキング・メーターに車を止めて、俺はその小さい建物の前に立った。
入り口の近くの机で書き物をしていた若い警官が顔を上げ、何か用かと言いたげな表情で俺を見る。
俺はとりあえず会釈を返してから名前を名乗った。
「先ほどお電話をいただいた御崎幸太郎と申しますが」
その警官は「ああ」と言い、奥にいた彼よりも少し年嵩に見える警官を呼んだ。
呼ばれた警官が立ち上がると、彼の陰になっていた少女が視界に入る。
スチールの椅子に座り、緑茶の缶を握り締めた佐和子は、俺と眼が合うといかにもバツが悪そうに顔を伏せた。
大股で彼女に歩み寄ろうとした俺の前に、さっきの警官が立ち塞がる。
手で側にあった椅子を示されて、俺は仕方なくそれに腰を下ろした。
「どうも、ご苦労様です。お電話を差し上げたのは私です」
巡査長は、人の好さそうな笑顔でそう言った。
「こちらこそ、お手数をおかけしまして。それで、彼女は補導されたわけですか?」
「いや、そもそもは性質の悪い奴らに絡まれていたところを、たまたま警邏中のうちの巡査が保護して、こちらに連れて来たという話なんですが」
「ああ……」
この街が、佐和子のような少女にとって決して安全な場所でないことは、知っている。
俺はたまたまでも通りかかってくれた警官に感謝した。
「まあ、問題はそこからでしてね」
警官は、苦笑いを浮かべながら続けた。
「どこから来たのか、ここで何をしていたのか、これからどこへ行くつもりなのか、そう言ったことを聞いたんですがね、わからないと言うんですなあ、本人は」
「はあ」
「最近は、青少年の家出や非行が低年齢化していますからねえ、そういったものを未然に防ぐためには、少しでも問題のありそうな子は放って置くわけにもいかんのですよ」
「ええ、よくわかります」
まるで佐和子もそうなのだというような言い方をされて多少は腹も立ったが、それが彼らの職務というものだろう、その点は仕方がない。
「一応、両親に連絡するから連絡先を教えろと言ったら、両親はいないと。しかし、こちらも身元引受人がいなければ帰すわけにはいかないんで、そう説明したところ、やっとあなたのお名前と連絡先を教えてくれたというわけでして」
と、警官は頭を掻いた。
「そこで……失礼ですが、御崎さんと彼女とはどういうご関係ですかな?」
「彼女は私の遠縁に当たるんですが……去年の夏に両親を亡くしていまして、今は私が引き取って面倒を見ています」
「ああ、なるほど」
車の中で考えた嘘だったが、警官はそれで一応納得したようだった。
「これも、まあ……念のためにお聞きするんですが、御崎さん、お仕事は?」
口調は丁寧だが、警官は探るようにそう聞いてきた。
これは嘘をついても仕方がないので、俺は正直に自分の身分を告げた。
「『MISAKI』という陶器メーカーで副社長を務めております」
「ほう……」
警官は、感心したように眉を上げた。
普段は家名や家柄など腹の足しにさえならなくても、こういうときには功を奏する。
やたら「御崎」の名前を振りかざすのは好みではないが、利用できるときには利用しなければ損というものだ。
「もし問題がなければ、彼女を連れて帰りたいのですが」
「もちろん、結構です」
案の定、警官はにこやかに頷いて、佐和子を呼んでくれた。
警官に促されて俺の横に立った佐和子の頭を、黙って軽く撫でてやると、彼女は何とも言えない複雑な表情で俺を見上げた。
なぜそんな顔をするのか理由を質してみたいところだが、今はその時じゃない。
「どうも、お世話になりました」
軽く頭を下げると、警官は「お気をつけて」と敬礼を返してきた。
そのまま、俺は何も聞かず、佐和子も何も語ろうとはせず、俺たちは黙りこくったままマンションに戻った。
つづく
2017年02月08日 ペットを躾ける10のお題 トラックバック:0 コメント:0