弥生ちゃんのヒメゴト =72=
アケミさんのところから帰る車中では、あまり会話がなかった。
もともと、圭介さんはお喋りな方じゃないし、あたしも、話したいことはそれなりに思いつくものの、なんとなく、雰囲気を壊したくなくて黙っていた。
会話がない、といっても、気まずかったわけじゃない。
あれこれお喋りをしなくても、同じ音楽を聴いているときのように、静かでやわらかい親しみの中にいる気がした。
いつの間にか降り出した雨が、フロントガラスに滝を作っている。
ワイパーが忙しなく前を拭うたびに、視界が開けたり霞んだりする。
通り過ぎる信号の色が、寒そうに滲んでいる。
「腹減ってない、大丈夫?」
ハンドルを握りながら、圭介さんが聞いた。
「あ、はい、大丈夫です……」
今でも胸がいっぱいで、お腹なんて空かない。
圭介さんは前を向いたまま、そうかと言った。
そんな圭介さんの横顔を見ていたら、なんだか急に喉が渇いてきた。
大丈夫ですと言ってしまった手前、やっぱり飲み物がほしいとは言い難い。
我ながらタイミングが悪いものだと溜息を吐くと、それに気づいた圭介さんは、ちらりと視線をこちらに向けた。
「どうかしたの」
「いえ、あの……、ごめんなさい、やっぱり喉が」
「渇いた? ちょうど良い、俺もコーヒーか何か、飲みたかったところだ」
実際はそうでもなかったかもしれないけど、圭介さんはそう言ってくれた。
「どこか店に入ろうか」
「でも、この雨だし……自販機があったら止めてください、あたし買ってきます」
圭介さんはわかったと言って、大通りから横道に逸れ、もう少し走って、シャッターの閉まった商店の軒先に置かれた自販機を見つけ、車を止めた。
「あそこなら、屋根があるから濡れないな。俺、行くよ」
「だって、圭介さんのいない間に、誰かに車どけろって言われたら、あたし動かせないし」
「5分もかからないのに、心配性だな……まあ、仕方がないか、頼んだよ」
あたしは、はい!と幼稚園児みたいな返事をして、助手席を飛び出した。
思ったよりも雨の降りは強く、住宅街の狭い道路を横切るだけで、けっこう濡れた。
とりあえず、圭介さんのために、ホットの缶コーヒーを買って、ポケットに入れる。
じんわりとその温かさを感じながら、自分の分を買おうとして、ちょっと迷った。
あらためて考えたら、特に飲みたいものなんてない。
さっきはあんなに、喉が渇いたと思ったのに。
突然、胸が、ぎゅうっと苦しくなった。
同時に、甘酸っぱいような気持ちになる。
渇いてたのは喉じゃない、あたしのカラダだ。
ほしかったのは飲み物じゃない、圭介さんのカラダだ。
ああ、そうだ、人を愛するってこういうことだ。
まるで、喉が渇いたみたいに、イライラとして、何か足りない気がすること。
アケミさんの前で、言わずもがなの告白をしたせいで、数時間前に比べて、あたしの恋は一気にレベルアップしてしまった。
もう、ココロの繋がりだけじゃ物足りない、満足できない。
子供だったあたしが、こんな台詞を言うようになるなんて。
――あなたがほしい、だから、あたしのこともほしがって。
不意に、頭の上からばさりと何かが降ってきた。
「きゃ」
被された黒っぽい布の隙間から、あたしの顔を覗き込んできたのは圭介さんで、黒っぽいと思ったものの正体は彼の上着だった。
「ずぶ濡れだぞ」
「圭介さん、車で待っててって言ったのに」
咎める口調であたしが言うと、圭介さんは鼻の横を掻いた。
「なんでだろうな、大した時間じゃないと自分で言ったはずが、君がなかなか戻ってこないから心配になった」
君が消えちまうわけはないのにね、ときまり悪そうに言う。
「だったら、つかまえておいてくれないと」
「うん?」
あたしは、彼の上着を自分の顔に押し付けて、彼のにおいをいっぱいに吸う。
それだけで、お腹の奥の方がきゅんとする。
「ふたりともびしょびしょ……乾かしませんか、どこかで」
圭介さんは、あたしの言葉の意味をすぐに理解して、にやりと笑う。
「我慢できない?」
あたしは頷く。
彼は、そういうことなら、とあたしの手を取った。
つづく


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2017年03月03日 弥生ちゃんのヒメゴト トラックバック:0 コメント:0