For The Moment =1=
「うぅん、先生……あたし、もうダメ……」
あたしが、とうとうソファの背もたれに寄りかかって音を上げると、となりに座る先生は、勝ち誇ったような顔でニヤリと意地悪く笑った。
「もう降参?」
「ん~、これ以上は無理。頭が変になりそう」
「ふふ……じゃあ、今回も僕の勝ちだね」
先生は、当然だと言わんばかりの様子でそうのたまった。
……悔しいけど、先生には敵わない。
放課後の、数学教科準備室。
狭い室内に2人きりで篭って何をしていたかって言うと……先生が最近はまっている数独とかいうパズルを解く競争をしてた。
縦横9列にそれぞれ1~9までの数字が入る、太線で区切られた3×3のマスにも1~9までの数字がひとつずつ入るっていう、すごく単純なパズルなんだけど、これがまた簡単そうに見えて奥が深い。
誰か知らないけど、こんなパズルを考案した人は、絶対ものすごく捻くれ者だったに違いない。
おかげで、あたしは先生の良いように負かされてばっかりだ。
まあ、考えてみれば、数学教師の先生が数字に強いのは当たり前だ。
競争だから、当然ながら負けた方には罰ゲームが待ってる。
負け続きのあたしは、もうどのくらい先生の無茶な要求に付き合わされただろう。
そのほとんどが先生の変態エロ趣味に走ったもので、裸エプロンとかオモチャとかいろいろ試されたけど、中でも1番恥ずかしかったのは……内緒。
とにかく、やられっぱなしじゃ収まらないし、何とか先生の鼻を明かしてやろうと思って頑張ってみるけど、やっぱり難しいものは難しい。
で、今日も性懲りもなく負けちゃったというわけだ。
「さぁて、今日の罰ゲームは何にしようか」
なんて、先生はすごく嬉しそうな顔で言う。
ていうか、胸の前でいそいそと揉み手するのとか止めてほしい。
「一糸纏わぬ姿で玄関のドアを開けてもらうとか……それとも、この間君がものすごく恥ずかしがっていたアレにもう1度挑戦してもらおうかな。いや、いっそのこと……」
ご機嫌な様子であれこれ挙げてみせる先生に、あたしは呆れて嘆息した。
「先生って、ホントにえっちだよね……」
「いいじゃない、柚月はそういう僕が好きなんでしょう。そもそも、僕を目覚めさせたのは君なんだし」
そう言って、艶っぽく笑いながら身体を寄せてくる先生。
あたしが、先生を目覚めさせた?
人聞きが悪いなあ、先生にいろいろ開発されちゃったのはあたしの方だ。
「ねえ……ここでしようか?」
先生の右手があたしの膝小僧をまあるく撫でる。
いつでも、先生に触れられると、そこから電気が走ったみたいに身体がわななく。
こんな風にされるのなんてもう当たり前で、それどころか抱きしめてもらえないと不安になるくせに、こういうシーンにはいつまで経っても慣れることができない。
「びくびくしちゃって、可愛い……何を期待してるの?」
「して、…ないよ、期待なんて」
なんて言いながら声が震えた。
期待、してるのかな、やっぱり。
上目遣いで先生を見ると、先生は困ったようにくすっと笑い、優しいキスを――唇ではなくておでこに――落としてから、身体を離した。
「冗談だよ。いつかみたいに失神でもされたら敵わないからね、お楽しみはあとまでちゃんと取っておく」
「んもぉ……先生、意地悪だ」
「だから、僕をそうさせているのは柚月だって」
それから、先生は大きな手のひらであたしの頭を撫で、そろそろ行こうかと膝を叩いて立ち上がった。
今日が鍵当番の先生は、これから校舎内を巡回しなくちゃならない。
広い校舎をひとりで見回るのはつまらないからって、時どきこうして付き合わされるけど、学校の中だから、教師が生徒と並んで歩いていたって全然変じゃないし、まさに灯台下暗しの即席デートだ。
準備室を出て戸締りして、それから2人で鍵束を取りに職員室へ向かう。
生徒たちもほとんど下校してしまった放課後の校舎は静かで、並んで階段を下りながら、あたしは先生の腕にちょっと触れた。
「うん?」
「先生……あたし、先生のこと好き」
先生は段差を2つくらい下りてから立ち止まり、戸惑ったような顔で振り返った。
「こういう場所で言われるとちょっとドキッとする台詞だね」
「だって、本当のことだもん」
先生の方が下段にいるから、2人の顔が同じくらいの位置にある。
先生は、そっと手を伸ばしてあたしの頬に軽く触れた。
「……嬉しいよ、ありがとう」
あたしは、そんな先生の手に自分の手を添えて頬ずりする。
ああ、もう……愛しくて愛しくて、どうにかなっちゃいそう。
「切ないね、そんな顔をされたら」
先生は、本当に切なげな表情になってそう言った。
「当番なんて放り出して、今すぐ家に帰って君を抱きたい」
先生があんまり露骨なことを言うから、あたしはちょっと顔を赤らめる。
でも……心の中で考えていることは先生と同じだ。
「先生こそ……校舎の中で生徒に言う台詞じゃないよ」
「う~ん、仕方がないね、本音だから」
先生は苦笑して、さあ、面倒なことはさっさと終らせて早く帰ろう、と言う。
あたしも、小さく頷いて先生のあとに続く。
あたしたちは、くすくすと忍び笑いを洩らしながら階段を下りた。
つづく


2016年04月08日 For The Moment トラックバック:- コメント:0
For The Moment =2=
職員室の前に、教頭先生と見慣れない女の人の姿があった。
先生は、さすがにあたしを連れてその前を通るのは体裁が悪いと思ったのか
「じゃあ、君はここでちょっと待ってて」
と言い置いて、歩いて行った。
「ああ、荻野先生、ちょうど良いところに……」
先生がその側を通り過ぎようとしたとき、教頭先生が声をかけた。
「はい?」
「ご紹介しますよ。ほら、数日前に安藤先生が倒れられたでしょう、どうも脳血栓で長引きそうなんで、私学協会から代理の先生を寄越してもらうことになったんですよ、それでこちらが……」
そう教頭先生が言いかけるのを、女の人の声が遮った。
「荻野君、……そうだ、やっぱり荻野君よね?」
荻野君、と親しげに呼ばれた先生は、怪訝そうな表情でその人の顔を窺った。
あたしのいるところからは、その人のうしろ姿しか見えないけど、しゃんとした背筋とか締まった腰の辺りが格好良い人だなとは思った。
あたしはこの歳になっても出るべきところが出ていない絶壁体型だから、こういういかにも女性らしいスタイルには憧れる。
それにしても……誰だろう、この人?
「もしかして……韮沢先生?」
少しの間のあと、先生は信じられないというような口調で彼女のことをそう呼んだ。
「あら、嬉しい。覚えていてくれたのね、私のこと」
言いながら、その人が先生の腕に手をかける。
そのときの、先生の顔に浮かんだ表情。
少しの驚きと、そして喜びの混じった微妙な表情。
何、これ……。
あたし、知らない。
先生のこんな顔、知らない――。
「えー、失礼ですが、お2人はお知り合いですかな?」
遠慮がちに口を挟んだ教頭先生に、2人がはっと顔を見合わせる。
答えたのは彼女の方だった。
「ええ、ずいぶんと昔の話ですけれど、荻野先生が大学生のころ、教育実習でお世話を」
こんな話をすると、歳がバレますね、と笑う朗らかな声。
それにつられて、照れたように頭を掻きながら笑顔を見せる先生。
「それはそれは、奇遇ですな。そういうご関係なら話が早い。咲口先生、何かわからないことがあったら荻野先生にお聞きになってください」
「咲口?」
「韮澤は旦那の苗字よ。今は離婚して旧姓に戻ったの」
そう言って、彼女はまた屈託のない笑い声を上げた。
先生は、複雑な表情で彼女を見ている。
嫌だなと思った。
あたし、この人、好きじゃない。
理由はわからないけど、先生の側にいて欲しくないと思った。
「御崎? こんなところで何をしている、生徒の下校時間はとっくに過ぎているだろう?」
うしろから声をかけられ、ビックリして振り向くと、そこに立っていたのは体育教諭の真壁先生だった。
「何か特別な用事でもあったのか」
真壁先生はそう言いかけて、職員室の前に立っている荻野先生に目を留め、それから、訳知り顔でニヤリと笑いかけてきた。
「ああ、そうか。荻野先生に用?」
その声が聞こえたのか、先生がチラッとあたしを見る。
先生の顔の上を微かにバツの悪そうな表情が翳め、次の瞬間、先生はあたしが思ってもみなかったことを言った。
「ああ、御崎。悪かったね、長い時間引き止めて。資料の整理は大方片付いたから、今日はもう帰っても良いよ。ありがとう」
一瞬、聞き違いかと思った。
先生が、あたしに向かって帰れって言ってる。
それは、これ以上あたしにここにいて欲しくないっていう意思表示。
この人に会ったから?
だから、あたしが邪魔になったの?
教頭先生が、2人に向かって何か言って、先生と彼女は同時に笑った。
あたしは踵を返した。
ここにはいられない、これ以上は見ていられないと思った。
先生のことを、こんなに遠く感じたのは初めてだったかも知れない。
先生に対して、こんなに暗い不信感を抱いたのも。
つづく


2016年04月09日 For The Moment トラックバック:- コメント:0