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「くそっ、遅えな……おい、もうどのくらい経った?」
幸太郎は、自分の向かい側にある壁際に直立不動で立ち、先程からぴくりともしない男に尋ねた。
「先ほど、同じことをお尋ねになってから10分です」
その男は制服の袖を少し捲って、チラリと腕時計に目をやると、幸太郎の癪に障るくらい慇懃な態度でそう答えた。
「屯倉(みやけ)……お前、その鯱ばった態度、どうにかなんねえの? 堅苦しくてしょうがねえんだけど」
この屯倉という男は、幸太郎の新しいお抱え運転手だった。
幸太郎は自分で車を運転するから、本来そんなものは必要ないのだが、彼の口うるさい父親が、「護衛も兼ねて」と押し付けて寄越したのが彼だった。
しかし、護衛って何なんだよ、護衛って。
いざという時の弾除けにでもなってくれるってわけでもあるまいし、と幸太郎は忌々しげに考えた。
学生時代に合気道をやっていたというだけあって体格はガッチリとしており、喧嘩には強そうだった。
実際に役に立つかどうかは別として、運転手というよりは強面のボディガードにでも使えそうな感じだ。
「一体、何時間かかるんだよ。いい加減、待ちくたびれて欠伸が出そうだぜ」
実際、幸太郎はこれ見よがしに欠伸をした。
これまで、彼は「待たされる」ということに慣れていなかった。
御崎の名前さえ出せばどこだって、ドアはたちどころに開かれるのが常だった。
「ご婦人の身支度には、お時間かかるのが常です」
屯倉が、相変わらず前を見たまま言う。
幸太郎は嘆息した。
「あいつのどこがご婦人だよ、小便くせえガキのくせして」
彼は、目の前で閉ざされた扉を睨んだ。
この扉の向こうには佐和子がいる。
ウィルトン・ホテルの地下にある美容サロン。
彼女は今ごろ、ここで髪をセットされたり、ドレスを着付けられたりしているはずだ。
先日、修司の店でドレスを見立てたときには幸太郎も付き添ったのだが、あまりの少女趣味に思わず笑ってしまった彼だった。
だから今日も、どんなお姫様が出来上がってくるかと楽しみに待っていたのだが、一向に姿を現さないのでイライラしてきたところだ。
「お前、佐和子のことどう思う?」
幸太郎は、暇つぶしのつもりで屯倉にそう聞いてみた。
「どう、と仰いますと?」
「いや、別にそのまんま。今日、初めて会ったわけだろ? 第一印象ってのを聞かせろよ」
「それは、大変お綺麗なお嬢様だと思いました」
お綺麗ねえ……なるほど。
幸太郎は小さく頷く。
「それから?」
「それから……とても素直そうで好感の持てる方だと」
まあ、そんなところが妥当だろう。
自分の惚れた女が、他人は鼻も引っ掛けないというのでは頭に来るが、必要以上に興味を持たれてしまっても今度は彼の方が困るというものだ。
「あいつはな、家出少女だったのを俺が拾って面倒見てやってるんだが、ひとりじゃとても放って置けねえような危なっかしいやつなんだよ。これから、お前にも何かと世話になると思うけど、俺からもよろしく頼むわ」
この屯倉を、自分の好きなように使って良いと言うのなら、佐和子のお守りでもさせようか、と幸太郎は考えていた。
見たところ、忠誠心も固そうだし、佐和子を会社に呼びつけるときなども彼に迎えに行かせた方が、ひとりでタクシーに乗せるよりもよほど安心できそうだ。
「はい、かしこまりました」
屯倉は、背筋をピンと伸ばしたまま深々とお辞儀をした。
幸太郎は、そんな屯倉に苦笑しながら、自分は体育会系の人間ではないが、こういう硬派を絵に描いたような男も悪くないかも知れないと思った。
「御崎様、お待たせいたしました。お連れ様のお支度ができました」
やがて厳かにドアが開いて、幸太郎は控え室のソファから立ち上がった。
少しはにかんだように俯いて、ゆっくりと進み出てくる佐和子。
履き慣れていないせいか、ハイヒールの足元が覚束ない。
幸太郎は、その姿に一瞬、息を呑んだ。
肩と背中が大きく開いた淡い色合いのドレス。
けれど、レースがふんだんにあしらわれているために、露出が適度に抑えられている。
スカートの丈は膝の辺りまであるが、正面にスリットがあり腿の半分までが覗ける。
しかし、そこにもレースが幾重にも重なっており、見えそうで見えないのがポイントだった。
幸太郎は、改めて修二のセンスに舌を巻いた。
童話絵本のお姫様のようなフリフリヒラヒラを着たがった佐和子に、「可愛らしいデザインでも安っぽく見えない、佐和子ちゃんに似合うと思う」と、修司が自信たっぷりに勧めたのが、これだ。
確かに……似合っていた。
今回はオーダーメイドではないが、まるで佐和子のために誂えたような出来だった。
彼女の黒くて長い髪は高い位置に纏めてあり、後れ毛の垂れた細いうなじが、艶めかしいほど白い。
薄く化粧をして、いつもよりもぽってりとして見える唇が誘いかけているようだった。
こいつ、本当に佐和子か……?
正直、彼もここまで変わるとは思っていなかった。
まるで、西洋の陶器人形のようだった。
驚いて言葉もない幸太郎に、佐和子が不安そうな瞳を向けてくる。
「どう、かな……似合わない?」
そんなことはない、と即座に否定しそうになって、それではあまりに格好が付かないと思い直したのか、彼は少し意地悪な言い方をした。
「驚いたな、いっぱしのお嬢様に見えるじゃねえか。馬子にも衣装か」
「幸太郎のとなりにいても、変に思われないかな。あたしみたいなのを連れて歩いて恥ずかしくない?」
その言い方に幸太郎は呆れた。
その格好が自分に似合うかではなく、彼と釣り合うかどうかを気にしているのだ。
「バカか、俺がお前を連れて行きたいって言ってるんだ。それを他人が見てどう思うかなんて関係ねえよ」
「だって……あたしみたいなのを連れてるせいで、幸太郎が何か言われたら嫌だもん」
「そういう言い方は止めろといつも言ってるだろう。俺は、自分でお前と一緒にいることを選んだ。他人にとやかく言われたら、大きなお世話だと笑い飛ばしてやるよ」
お前はただ、俺の側にいればいいんだ、そう言って幸太郎が頭を撫でてやると、佐和子はやっといつもの笑顔に戻った。
幸太郎は、「車を出せ」と言おうとして屯倉を振り返った。
ところが、驚いたことに、屯倉は口をぽかんと開けて佐和子に見惚れていた。
「おい、屯倉」
「はっ、はいっ」
途端に、我に返ったように姿勢を正す。
「何ボケッと突っ立ってんだよ」
「あ、いえ、その……あまりにお美しいので、つい……も、申し訳ありませんっ」
しどろもどろになる屯倉に、幸太郎は苦笑を洩らす。
惚れた女を褒められるのは悪い気分ではない、そいつが妙な気を起こさない限りは。
「思わず見惚れちまったってか。だが、生憎で悪いが、こいつは俺のもんだ」
見せ付けるように佐和子の腰を抱き寄せ、それから屯倉を急かす。
「早いとこ、車を出せ。急がないと遅れちまう」
慌てて走り去っていく屯倉のうしろ姿を眺めながら、少し大人気なかったか、と思った。
だが、それも仕方がないことなのだ。
佐和子のことに関しては、どうも自分を上手く制御できない幸太郎だった。
これもまた、惚れた弱みというやつなのかも知れない。
つづく


2012年12月01日 beloved トラックバック:- コメント:0
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目的の場所に着き、その正面玄関で、幸太郎と佐和子が屯倉の運転するベンツから降り立ったとき、そこはすでに多くの人で賑わっていた。
「うわ、すごい人だね」
佐和子が、少し上ずった声を出す。
幸太郎が彼女を手元に置くようになってから数か月が経つが、こんなに人目のあるところに改めて連れ出したのは初めてのことだった。
今日は、ここでクラシックのコンサートがある。
年に1度、恒例となっているこのコンサートは「MISAKI」も協賛しており、相変わらず現役で忙しく飛び回っている社長の御崎巌に代わり、息子の幸太郎がここに顔を出すのが常となっていた。
いつもであれば初日公演の前のレセプションに顔だけ見せ、あとはさっさと「お暇」させてもらうのだが、今日は佐和子も一緒だ。
クラシックなど生では聴いたこともないと言う彼女を、この機会に本物に触れさせてやってもいいかと思い、連れて来たのだった。
初日の今日は、幸太郎のような来賓と関係者、それにプレスだけで一般客は招待されていないはずだが、エントランス・ホールはかなりの人で混雑していた。
幸太郎は、逸れてしまわないように、佐和子の手をしっかりと握り締めた。
「御崎様?」
人込みの中から誰かに声をかけられる。
「やっぱりそうでいらしたわ、お珍しいですわね、こんなところに顔を出されるなんて」
ホホホ、と白い手袋をはめた手の甲で口元を隠して笑う。
パッと見て名前が浮かぶほど親しくはないが、今日と同じような(幸太郎に言わせれば金持ちの集まるクソくだらない)パーティーではよく見かける顔だった。
いわゆる「上流階級」に属する人種というのはなんと言っても数が多くないから、今日のような催しがあれば、集まるのはいつも似たようなメンツということになり、面白味に欠けるのは否めない。
だから、新顔はとかく興味を引いてしまう。
そう……例えば、今日の佐和子のように。
「あら……可愛いお嬢さん。御崎様のご親戚か何か?」
言いながら、値踏みするような視線で佐和子を眺め回す。
「今まで、お見掛けしたことのないお顔だけれど」
「え、あの……あたしは……」
咄嗟になんと答えて良いかわからず口ごもる彼女の肩を、幸太郎が庇うように抱く。
「そんなこと、あんたみたいな他人には関係ねえ」
きつい調子でそう言い返されて、相手は引いたように口を噤んだ。
「行くぞ、佐和子」
戸惑う彼女を急き立てるようにして、幸太郎が歩き出そうとしたそのときだった。
「その方、幸太郎様のご親戚なんかじゃなくってよ」
聞いたことのある声がして、幸太郎は思わず足を止めていた。
「確か、佐和子さんとか仰ったかしら? 幸太郎様の、新しいペット」
俯いていた佐和子が、弾かれたように顔を上げる。
幸太郎は、憎々しい思いで声の方を振り返った。
「何だと?」
匂うような微笑、とでも言うのだろうか。
その場の雰囲気が一気に変わるほどの華やかさを纏った女がそこに立っていた。
森下友里恵。
首都圏で大規模な貸しビル業を営む、有名な森下グループのひとり娘。
多分、幸太郎が今、1番会いたくないと思っていた女だった。
「ずいぶんとご執心でいらっしゃるのね、こんな場所にまでお連れになるなんて」
「俺が、どこに誰を連れて行こうと俺の勝手だ」
「ええ、そうですわね。もちろん、それがその場に相応しい方であるなら」
友里恵は冷たく言い、佐和子の顔を覗き込むようにした。
佐和子は、蛇に睨まれた蛙のように竦み上がった。
「失礼だけど、あなた、お父様のお仕事は?」
「え、あたし……父はいません」
「あら、それはごめんなさいね。お亡くなりになったの?」
「いえ、あの……そうじゃなくて、生まれたときからいないから……」
それを聞いて、友里恵は「まあ」と言ったきり1歩後退った。
その顔に、蔑むような表情がありありと浮かんでいる。
「それじゃ、お母様は?」
「今、どうしているのかわかりません……家を出てから音信不通だから」
家出、と繰り返してから、友里恵は大袈裟に絶句して見せた。
それに同調するようにして、友里恵の取り巻きたちもひそひそと言葉を交わし始める。
その視線がチラチラと佐和子に当てられていることから、彼女のことをあれこれ話しているのだろうことも、それがあまり好意的でない内容であることも明らかだった。
幸太郎は、今さらながら声を出さずに己を罵った。
佐和子を大事にしすぎて彼女を抱くのを躊躇っていたころ……自らの欲望を満足させるためだけに身体を重ねた女。
佐和子の名前を呼びながら、佐和子の面影を重ね合わせながら、佐和子の代用にした女。
そしてあの日、彼の背中に赤い爪跡を残した女。
その意味を、幸太郎は初めてはっきり理解したような気がした。
自分が誰かの代用にされること、それは、プライドの高いこの女にとって、何よりも耐え難いことだったに違いない。
その女が今、目の前に立ち、当の佐和子を見下ろしている。
自分の優位を見せ付けるように、胸の前で腕を組み、蔑むような冷笑を浮かべながら。
「それ以上、答える必要なんてねえ。相手にするだけ無駄だ」
すっかり萎縮して小さくなってしまった佐和子を促し、その場を去ろうとした幸太郎に、追い討ちをかけるような友里恵の声。
「幸太郎様も、とんだ拾い物ですこと」
友里恵は、その場で同じ空気を吸っているのも嫌だといった様子で言い捨てた。
「どこの馬の骨ともわからない、卑しい野良犬。そんなものに、御崎幸太郎ともあろうお方が興味を持たれるなんて、本当に意外ですわ。その貧弱な身体を使って、色仕掛けで迫ったのかしら。それとも、哀れな私をお救いくださいって、同情でも買ったの?」
身の程知らず、そう言って、彼女は赤いマニキュアを塗った手で佐和子の胸を突いた。
履きなれないハイヒールのせいで、あっけなくよろめく佐和子。
その小さな身体を、幸太郎は慌てて抱きとめた。
「お前らが、こいつのことをどう思っているのか知らねえが」
幸太郎は、怒気を含んだ声で、彼らを取り巻いた人垣に言い渡した。
「俺にとっては生涯で最高の女だ。佐和子を傷つけるやつがいたら、それが誰であろうとこの御崎幸太郎が許さねえ。よぉく胆に銘じておくんだな」
幸太郎の剣幕に、その場にいたほとんどが気圧されたようだった。
だが、ただひとり友里恵だけは、またしてもプライドを傷つけられたと感じたのか、挑発的な様子で言い返した。
「そのうち、きっと後悔なさいますわよ、幸太郎様。せいぜい覚悟しておくことですわね」
そんな友里恵を、幸太郎は鼻であしらった。
「有難い忠告だが大きなお世話だ。俺は自分の決めたことに後悔なんてしねえ。佐和子を選んだのは俺だ。あんたにも、他の誰にも、あれこれ言われる筋合いはねえんだよ」
そして、おもむろに佐和子の肩を抱くと、その耳元で囁いた。
「ちょっとの間、目瞑ってじっとしてろ」
幸太郎が何をするつもりなのか見当もつかなかったが、佐和子は言われた通り大人しく目を閉じた。
彼に命じられれば、佐和子は嫌と言うことができない。
というより、佐和子にとって、どこよりも何よりも安心できる場所、それは彼の腕の中なのだから、彼女はいつも進んで彼に従った。
それから、彼女の肩を抱く幸太郎の手に少し力がこもる。
顔のすぐ近くで感じた彼の息遣い。
次の瞬間、佐和子があっと思ったときには、彼女の唇は幸太郎のそれで塞がれていた。
「んんっ……」
突然のことに驚いて、抗う間もなく口中深く入り込んでくる舌。
ここがどこで、自分たちが何のためにこの場所にいるのか、思い出そうとする前にどんどん身体の力が抜けてしまう。
やがて呼吸が続かなくなって苦しげに鼻を鳴らすと、幸太郎はやっとのことで彼女を解放してくれた。
息が上がり、顔が赤くなっているのが自分でもわかった。
「これでわかっただろう、他人の目なんて気にしちゃいられねえんだよ、今の俺はな」
おら、ボサッとしてんじゃねえ、幸太郎は、さっきの余韻でまだ少しふらついている佐和子の腰を乱暴に抱き寄せる。
そして、呆気に取られている人たちを尻目に、何事もなかったかのような顔でさっさとその場を後にした。
瞳に怒りを滾らせて、2人のうしろ姿を睨みつける、友里恵には見向きもせずに。
つづく


2012年12月01日 beloved トラックバック:- コメント:0