七夕前の、とある日の2人。
「ただいま」
言いながらドアを開けると同時に、駆け寄ってくる彼女の姿が目に入る。
彼女は、小さな身体をぶつけるようにして抱きつき、大きな瞳で僕を見上げて言う。
「お帰りなさい、先生」
僕の部屋で、僕の帰りを待っていてくれる愛しい女性(ひと)に、先生と呼ばれる僕。
そう……彼女は僕の教え子だ。
禁断、背徳、許されない恋――。
他人は、なんとでも言えば良い。
自ら望んで飛び込んだ甘い罠……僕は虜。
抜け出せない……いや、抜け出そうとも思わない。
今、僕の腕の中にいる少女よりも尊いものなんて、この世にはないのだから。
「先生、流星君からお便りが来てるよ」
柚月が、制服の上に着けたエプロンのポケットから、1枚のハガキを取り出す。
彼女が学校帰りにここに寄って、夕食の用意をしてくれるのも日課になってしまっていた。
「流星から?」
流星というのは僕の姉の子供で、つまり僕にとっては甥っ子になる。
幼稚園の年長組に通う6歳の坊主だが、コイツがなかなか侮れない。
先日、柚月を連れて実家に帰省したときに会わせたら、どういうわけか彼女が流星にえらく気に入られてしまって。
終いには「柚月と結婚する」とまで言い出して、僕も大いに焦った。
ガキ相手に焦るなんてバカみたいだと自分でも思うが、それも惚れた弱みというやつだ。
「で、何だって?」
僕が聞くと、柚月は「ふふ」と小さく笑ってそのハガキを読み上げ始めた。
ゆづきおねえちゃん、げんきですか? ボクはげんきです。
きょう、ようちえんでたなばたのたんざくをかきました。
ボクは「ゆづきおねえちゃんとけっこんしたいです」とかきました。
ゆうこせんせいが「ゆづきおねえちゃんってだれ?」ときくので、「かのじょだよ」とこたえました。
ゆうこせんせいはわらっていたけど、「ねがいごとがかなうといいね」といってくれました。
ゆづきおねえちゃんにあいたいです。
だいきらいなにんじんも、すこしだけたべられるようになったよ。
だから、あきらおにいちゃんにおねがいして、はやくつれてきてもらってください。
「あのマセガキ」
ひらがなばかりの拙い文面。
それでも、幼いなりに一生懸命書いたのが伝わってきて、僕は思わず苦笑する。
柚月はそんな僕をニコニコしながら見ている。
「流星君、あたしと結婚したいんだって」
「それはこの間も聞いたよ。まったく、ガキのくせに生意気なこと言いやがって」
ていうか、ハガキの宛名は僕なのに、中身はまったく蚊帳の外なんて面白くない。
「でもさあ、満更でもないね。誰かに想いを寄せられるのって」
あれ? 思いがけず嬉しそうな柚月の顔。
ここは、「本当にね、流星君たらマセてるよね」とか言って一緒に笑うところのはず。
「ちょ、ちょっと待て。相手は6歳、10歳も年下の幼稚園生だよ?」
「恋に歳なんて関係ないじゃん。現にあたしと先生だって9歳も離れてるし」
う……痛いところを突いてくるな。
確かにそうなんだ、それは否定しないよ、だけど。
「てか、柚月も僕以外の男に言い寄られて、ちょっとは嫌そうな顔しなさい」
「先生こそ、子供相手にムキになってる」
意味ありげに微笑んだ柚月の細い腕が、僕の首に回される。
「あたしが好きなのは先生だけ……わかってるでしょ?」
開きかけた花のような小さい唇から洩れる甘い言葉。
そんな顔でそんなこと言われたら、抱きしめずにはいられなくなる。
「流星君のことは極端な例だけど……これからどんなに素敵な人が現れても、あたしには先生以外の人なんて見えない。先生しか要らないの」
「柚月……」
僕も君と同じ気持ちなのだということを伝えるにはどうしたらいいだろう?
強く抱きしめて、深く口づける以外に、何か方法があるなら教えて欲しい。
それから、玄関の上がり框に立ったまま、僕達は長い長いキスを交わした。
「今年は、ベランダに七夕飾りを置こうか」
柚月の柔らかな髪を撫でながら、僕は言う。
心地良さそうに閉じていた眼を上げて、柚月が僕を見た。
「あたし、短冊に書く言葉なら決まってるよ」
「何を書くの?」
「いつまでも先生とずっと一緒にいられますように」
その願いはきっと叶う。
僕はこんなにも君を愛しているのだから。
君を手離すくらいなら、僕は自らの手で君を壊してしまうだろう。
僕らはいつまでも一緒だ……文字通り、死が2人を別つまで。
「愛してるって言って、先生」
「愛してるよ」
「もっと言って」
「愛してる」
「もっと」
「愛してる、愛してる、愛してる。僕は柚月を愛してる」
急に黙ってしまった柚月の顔を覗き込むと、黒目がちな瞳に涙をいっぱい溜めていた。
瞬きひとつで零れてしまいそうなそれは、まるで宝石みたいに美しかった。
「あたしも……」
「ん?」
「愛してる、先生のこと」
「……嬉しいよ、ありがとう……」
ニッコリ笑った拍子に、柚月の眦から涙が零れた。
僕の腕の中にいる、僕だけの柚月。
この小さな温もりを、いつまでも大切にしよう。
「……柚月、なんか焦げ臭くないか?」
「あっ、いけない!」
飛び上がった柚月が、せっかくの良い雰囲気ぶち壊しでキッチンへと駆けて行く。
僕は笑いながら、そのうしろ姿を見送る。
流星のマセぶりには困ったものだけど、おかげでこんなに穏やかな気持ちになれた。
感謝……しておこうかな、一応は。
七夕の夜は、晴れますように。
織姫と彦星、愛し合うあなた達なら、僕の願いも聞いてくれますよね。
余計なことなんて望まない、僕の願いは唯ひとつだから。
「愛する人の側で、いつまでも一緒に生きていきたい」
これが僕の、ささやかで贅沢な希みだから。
= fin =


2012年10月22日 拍手お礼SS トラックバック:- コメント:0
ある朝、朝顔が咲いた。
朝起きて、ベランダに出る。
まだ覚醒前の街は白い靄に包まれていて、ひんやりとした空気が漂ってる。
けれど、爽やかに晴れた空は今日も暑くなりそうで、それは、シャーベットのように儚い清涼感だ。
僕は手摺に寄りかかり、下界を眺めながら煙草に火を点ける。
数ヶ月前と比べたら、コイツを吸う量も格段に減ったな。
別にヘビースモーカーというわけではなかったけど、手持ち無沙汰な時や口寂しい時には、どうしても手が出てしまっていた。
でも今は……僕の隣りには、柚月がいるから。
甘くて、ふんわりと柔らかくて、温かくて、まるでケーキみたいな彼女。
いや……麻薬かな。
今や彼女なしでは生きられない僕にとって、煙草なんかよりもよっぽど性質が悪い、甘美な誘惑。
1度でもその味を知ったら、2度と手離せない。後はもう、堕ちていくだけだ。
骨抜き、か。
正直、自分がここまで彼女に夢中になってしまうなんて、思ってもみなかった。
僕は、彼女に溺れている。
一途に僕を見上げる瞳も、僕を好きだと囁く声も、僕の背中を抱きしめる腕も、彼女の全てが本当に愛しい。
彼女はもう、僕にとってなくてはならない存在だ。
その愛しい人は、ベッドの中で丸くなり、安らかな寝息を立てている。
向こうを向いて、白い肩を剥き出しにした、ちょっとふしだらな寝姿で。
彼女は僕のもの。
シーツの裾から覘く裸足の裏だって、僕だけが知っている宝物だ。
僕はひとりでニヤニヤしながら、コンクリートの床に吸殻を落とす。
ふと、手摺に沿って置かれたプランターに目が行った。
「あ、咲いた」
思わず、僕は呟いた。
春の終わりだっただろうか、柚月がいきなり僕の部屋のベランダにプランターを持ち込んで来て、「朝顔を蒔く」と張り切っていたのは。
スコップを使いながら、楽しそうに土いじりをしていた彼女は、まるで幼い子供のように可愛らしかった。
どんな色が咲くのかと僕が尋ねたら、咲いてからのお楽しみだと笑っていたっけ。
今、僕の目の前で咲いている朝顔は、淡いピンク色。
朝靄の中で恥らうようにほころんだその花が、柚月みたいだなと僕は思った。
1センチにも満たない、小さな黒い種だったそれは。
細いけれど、支柱にしっかりと蔓を巻きつけて、花を咲かせるまでに育った。
なんだか、ちょっと感動した。
朝顔なんて、小学1年生でも育てられる。そんなものが咲いたからって、何を感動してるんだって言われそうだけど。
なんか、さ。
どんな小さな芽でも、大事に育てれば花が咲くんだなって。
それは、人の心でも同じかも知れないと思う。
ある日、胸に萌した想いは、心の中の養分を吸って、いつか大きな花を咲かせる。
愛という名前の。
目で見て愛でることはできなくても、手で触れることはできなくても、愛し合う2人なら感じることができるだろう、その美しさを。
ていうか……朝から何てクサイことを言っているんだろう。
照れ隠しに深呼吸して、それから、ジョウロで朝顔に水をやった。
気を付けて見てみたら、他にもいくつか蕾がついてて。
薄いピンクだけじゃなくて、もう少し濃い色や紫や青なんかもありそうだった。
たかが朝顔、でも奥は深いらしい。いや、よくわからないんだけど。
部屋に戻って、窓を閉めた。
静かだ……エアコンの稼動音だけが低く聞こえている。
柚月がコロンと寝返りを打ち、無防備な寝顔がこちらを向いた。
朝が弱いからな、柚月は。今頃は、まだ夢の中に違いない。
ねえ……どんな夢を見てる?
僕じゃない男の夢だったら、承知しないよ。それがたとえ、芸能人か何かであったとしても。
君の夢まで束縛したいと思うのは、僕のエゴだろうか?
僕はどんどん欲張りになっていくよ。
はじめは、君がただ側にいてくれればいいと思っていたのに。
でも、今は違う。
君の世界を僕一色で塗りつぶしてしまいたいとさえ、考えることがある。
そんなことを考えてしまった後は、ものすごく後悔したりするんだけど。
どうしようもないね……僕をこんな風にしたのは他でもない、君だから。
眼を閉じたまま、柚月が薄く笑う。
楽しい夢を、見ているのかな。
覗けないのが、ちょっと悔しい。
「柚月……」
僕は、彼女の隣りに身体を滑り込ませる。
「朝顔、咲いたよ」
彼女は低い声で何か言って、僕の背中に腕を回してきた。
支柱に蔓を巻きつけた、あの朝顔みたいに。
抱きしめると、柚月はほんの少しだけ薄目を開けた。
「柚月……好きだよ」
「うぅん? あたしも、好きだよぉ……」
最後の方はウニャウニャと寝言みたいになって、また眼を閉じてしまう。
伏せられた睫毛が長い。本当に、人形みたいだ。
ねえ、どうせなら僕と一緒にもっといい夢を見ようよ。
眠って見る夢は、決して思い通りにはならないのだから。
「愛してるよ、柚月。枯れても死んでも、絶対に離さない」
僕は、君という滋養がないと生きていけない、植物のようなものだ。
だから僕に、愛を与え続けて。
季節を超えて、いつまでも。
そんなにきれいなものではないけれど、僕という花が枯れないように。
= fin =


2012年10月22日 拍手お礼SS トラックバック:- コメント:0